【政治考察】 平成二十七年八月八日に映画『日本のいちばん長い日(二〇一五)/松竹・アスミック・エース』が全国で公開された。監督は、原田眞人。同作は、昭和四十二年に岡本喜八が監督で公開された。ストーリは、昭和二十年八月十五日の玉音放送までの経緯をドラマに仕立てあげている。皇居内の地下防空壕「御文庫(オブンコ)付属室」で昭和天皇は聖断をした。
そもそも大日本帝国は、何故に開戦となったのか。“天皇大権(統治権全般)”という我が国の絶対的な権限を有していたにも関わらず、何故に戦争を止めれなかったのか。『新安保法制』でデモ等が叫ばれる中、当時の開戦のシステムを知る者は少ない。
<明治から昭和初期は“軍部”が三権の外だった>
大日本帝国憲法(以下、「帝国憲法」)では、天皇主権ではない。
帝国憲法 第一条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
当時の我が国が統治権をもつとされ、天皇は総攬するとされていた。天皇は我が国そのものでもあるが、歴代の御霊ありきに今上天皇は総攬するので、主権とは言い難い。日本は、西洋の主権の範囲内で定義できるモノではない為。正に現人神(アラヒトガミ)が的確であろう。倭の国が先にあり、西洋の学問は後である。定義できるワケがない。現在は、皇紀二六七四年で西暦二〇一四年である。
学術的な点は未来の学者に譲るとし、明治維新後の我が国は、天皇の下に司法権・立法権・行政権が置かれていた。ここまでも現行憲法と同じ仕組みで、三権分立だ。しかし軍部(元帥府)は、三権に独立して天皇(大元帥)の下に置かれた。
帝国憲法 第十一条:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
これが昭和で火種となる。因みに当時の空軍は、海軍に属した。帝国憲法の発布は大政奉還から二十二年。明治の新政府は、アジア初となる憲法の制定(オスマン帝国憲法を除く)を急いだ。二十年前までマゲだった民族が、アジア初の憲法を創るコトを急いだ。江戸のシステムから段階的に立憲君主制に移行する途中に穴があった。本来、第十一条は軍部を政治利用されない為や秘密を保持する目的であったが、昭和にコトが起きる。
<大日本帝国憲法 第十一条の穴>
明治に大きな戦争が二つあった。この時の明治天皇と昭和の大戦の昭和天皇の年齢を知る必要がある。明治天皇は、日清戦争の開戦時に四十二歳。日露戦争の開戦時には、五十二歳。しかも明治天皇は、大本営で直接戦争指導に当たった。昭和天皇は、日中戦争時の開戦時に三十六歳。太平洋戦争の開戦時に三十八歳と若い。両戦争は大東亜戦争に含む。
明治天皇には、元帥陸軍大将の山縣有朋が就いた。山縣は、「国軍の父」と称される明治維新期の功労者であり、帝国憲法発布時の内閣総理大臣でもあった。詰まり、この時には、第十一条の穴は気に留める程のモノではなかった。一方、昭和天皇には、陸軍大臣に東條英機が就いた。日中戦争の発端となった満州事変時より、陸軍の一部(関東軍)等の暴走が始まっており、内閣総理・陸軍・内務の三大臣を兼ねた東條の頃には軍部は三権の手に負えない状態に悪化した。
東條は、行政府と元帥府を押さえた(政戦略不一致からの政戦略一致)と表現できる。強くなった東條を抑えるコトができるのは昭和天皇のみとなったが、太平洋戦争の開戦時に三十八歳であった昭和天皇に対し、東條は五十五歳。開戦は御前会議で決定される。意見が相反した場合に、この年齢差は大きいであろう。推して図るべきである。
<白洲次郎と吉田茂>
昭和天皇が終戦を口にしたのは、昭和二十年八月十日の深夜。広島と長崎に原爆が落とされた直後だった。
| 戦争指導については、先の(六月八日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ
昭和天皇の御心を察するには辛い、重い一言であった。その結果、八月十五日の玉音放送により終戦を国民は知り、九月二日のポツダム宣言への調印により敗戦を喫す。その後、GHQの監督の下で「憲法改正草案要綱(≒マッカーサー草案)」が作成され、日本国憲法が昭和二十一年十一月に公布。現在に至る。
GHQは天皇を「Symbol(象徴)」と表記。当時の外務大臣で、後の総理大臣である吉田茂を精神的に支えた、官僚の白洲次郎が日本国憲法についてGHQと激しく亘り合った。白洲は「従順ならざる唯一の日本人」と称された。白洲は、現行の日本国憲法を“おくりもの憲法”と称し、一院制等の改憲を唱えていた。
日本国憲法 第九条:
第一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
自衛隊は軍部ではないので、行政府に属す。
<戦争法案と称するコト自体が無理な解釈>
平成二十七年八月七日、地方創生担当大臣の石破茂は戦争について寄稿し、自治大臣(現 総務大臣)であった父の石破二朗の言葉を記した。
戦争法案と一部で呼ばれる『新安保法制』は、あくまでも日本国憲法下の行政府の防衛組織「自衛隊」についてであり、帝国憲法下の軍部ではない。故に、先の大戦の様な軍部の暴走は現状のシステムでは起こり得ない。それは今国会で改正『防衛省設置法』が成立し、背広組と制服組が対等になるが、制服組(軍人)は大臣になるコトができない。東條は軍人であった。
日本国憲法 第六十六条 第二項:内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない
戦時下の憲法とは違う。戦争を始めたり、終わらせたりするシステムが全く異なるのだ。“天皇大権”もなければ、軍部もない。軍事力とされる自衛隊も行政府で制御されている。日本ができるコトは、自衛のみである。第一、明治期の戦争時と昭和期の大戦時とは国際情勢が大いに異なる。前者は、清国が英国に破れ白人による植民地支配を防いだ。後者は、常任理事国であった国際連盟(現 国際連合)でリットン報告に関し白人至上主義を目の当たりにした日本全権の松岡洋右が脱退を表明の後に、アジアの植民地を開放すべく大東亜戦争に突入した。共にアジアに貢献する為に戦争を行っている。今の日本に戦争を起こす世界的な理由が存在しない。
現行の日本国憲法において戦争を起こす方法は、『新安保法制』を廃案にし米豪との連携が途絶え中露に挟み内される状態をつくるコトではないだろうか。『新安保法制』は牽制になる。外務大臣の岸田文雄や副総理大臣の麻生太郎らは、優れた交渉を行っている、と現状を鑑み云える。
0コメント