【教育報道】 孔子(己酉または庚戌)の言行を記した儒教経典『論語』の「為政第二の四」に、以下の有名な七十歳を超えた時の孔子の人生観が記されている。
- =通説=漢文(白文):子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。
- 書き下し文;子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(ノリ)を踰(コ)えず。
この書き下し文が間違っていたと(下線部)。間違いを指摘したのは、歴史学者・福永晋三(壬辰)。令和四年五月二十日に福岡・嘉麻にて開いた講座にて説明した。福永は「國學院大」文学部文学科(漢文学専攻)卒。元「都立高」の教諭。
<天命に従っていた>
新説は以下。
- =新説=漢文(白文):子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十耳順、七十而従心所欲不踰矩。
- 正)書き下し文;子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして已(スデ)に順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。
- 現代語訳;孔子はおっしゃった。「私は十五歳で学問を志した。三十歳になって独り立ちした。四十歳で惑わされる事がなくなった。五十歳で自己の天命を理解した。六十歳で既に天命に従っていた。七十歳で思うままに行動をしても、人の道を外さなくなった。」
無茶な解釈だった
二十世紀の終わり頃に、中国・敦煌(トンコウ)から「唐時代(六百十八~九百七年)」の少年が書いた『論語』の一説が出土。通説の下線部は「六十而耳順」と“而(シコウシテ)”が入っていたが、出土した論語には“而”の字が無かった。
漢文「合音字」の“耳(ジ)”は、“而已(ジイ)”であると。
さすれば、意味は異なる。「=通説=六十歳で人の意見に耳を傾けられる様になった。」とはならない。福永は「無茶な解釈をしていた。天命を知った上で、(六十歳の)孔子は行動していた。」と述べる。この過ちの理由を、後の時代で誰かが“而”の字を足したと言う。
この新説は、少年の論語を見付けた先生達が主張している模様。
<姫氏国と孔子>
孔子(儒教の開祖)は四聖人の一人。他は釈迦(仏教の開祖)・キリスト(キリスト教の救世主)・ソクラテス(最初期の道徳哲学「倫理学」者の一人)。論語は孔子の死後、四百年を経て弟子達が編纂。弟子は三千人とも。
特に「五常の徳(仁・義・礼・智・信)」が有名。報道府も五常を掲げている。日本では飛鳥時代・聖徳太子が五常の上位に“徳”を設けて「六徳目」とし、「冠位十二階」を作った。
孔子は、古代中国『周(紀元前十一~前三年)』の諸侯国「魯」にて生まれた。両国の国姓は共に『姫(キ)』。両国の君主の姓も姫。日本には、倭漢通用の国称『姫氏国(キシのクニ)』があった。“姫”が通ずる。
月読命
DNAの集合体である「染色体」を見ると、日本人男性の「Y染色体ハプログループ」の最多は「旧・D2」の四割。縄文人由来。日本以外では「チベット高原」にて高い頻度を示す。間の中国大陸に旧・D2が居ない理由は、漢民族等が滅ぼしたものと推定されている。
縄文時代に日本人は征西した可能性がある。それが海外担当の「月読命(ツクヨミのミコト、ツキヨミのミコト)」かも知れない。アマテラスとスサノオの兄弟であるが、記紀にて登場回数が圧倒的に少ない。もし、そのツクヨミの一派が母国に通じる姓『姫』を名乗ったとするのであれば、周等は日系だったかも知れない。
ともすれば、孔子も日系であった可能性がなくもない。尚、周では、孔子が生まれる五百年も前に「礼学」の基礎を作ったとされる。日本臣民は今でも礼を重んじている。
現代語訳(再掲)
孔子はおっしゃった。「私は十五歳で学問を志した。
三十歳になって独り立ちした。
四十歳で惑わされる事がなくなった。
五十歳で自己の天命を理解した。
六十歳で既に天命に従っていた。
七十歳で思うままに行動をしても、人の道を外さなくなった。」
記事:金剛正臣
画像:なぜ日本人は『論語』を「心のよりどころ」にするのか/國學院大學、新説 日本書紀「第17回(3/6) 成務天皇 臺與と仲哀天皇の繋ぎ」(「伊都」→「一」に置き換えられている②)/YouTube、孔子の教え/Amazon、遺伝子で判明、秦氏は中東から渡来した
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