若手で大人を再定義できるチャンス

【社会論説】 成人の定義が百四十年振りに変わる。改正『民法』が成立し、現行の二十歳から十八歳に引き下げられる。婚姻も男女ともに十八歳に統一。


四年後には高校三年生の多くが在学中に成人する。子どもが率直に思う疑問。大人とは何か。どうやったら大人になれるのか。早く大人になりたい。親達は子どもへ大人というものを教える事ができるだろうか。できるだろうか。


既に大人になっている者も大人とは何かを模索している。答えの出ない問いだ。


だが今の社会は以前から指摘している通り、幼稚化している。圧倒的な経験や資力のあるシニアが社会的に機能していない。本来は社会の見本・手本であり、下の世代の者を育むべきシニアが機能していない。中年・壮年は指導者不在のまま、手探りで激動の時代に立ち向かっている。青年の一部は絶望し、鬼畜とも言える犯罪に手を染める。


大人とは何か。この国は法治国家で煙草や酒を飲める年齢、少年法等の大人と子どもの区別。選挙権等を法律で決める。だが本質的な大人の定義は国民が決めるしかない。それが社会通念の認識となる。


ぶつかっても謝らないのは大人か。子どもだ。大人は礼儀を重んじる。苦しい言い逃れをするのは大人か。みっともない大人だ。ちゃんとした大人は潔い。大人しく自身の非を認め、改善や修復に全力を傾ける。見て見ぬ振りをするのは大人か。悪い事と感じていても自身の善いと思う事を抑えるのは大人か。自分を騙し続けるのは大人か。


子ども達や次の世代に胸を張れる生き方をするのが、一つの答えである。それ以外は子ども、ないし未熟な大人だ。


人間は失敗をする。その際に先輩は訂正して、後輩が新たな基準で挑む。この繰り返しで世界でも優れた日本文化が連綿と続く。だが先輩方が訂正をしなければ、または過ちを認めなければ、後輩は過ちを維持して間違った方向へと突き進むだろう。文化が衰退して、結局は自身達や子ども達の次世代が更に苦しむ。


日本文化に貢献しない程度の低い大人を説得、払拭する事も大人の責務ではないだろうか。何より自身に恥じの無い大人になろうではないか。

(了)

0コメント

  • 1000 / 1000