生産性自体を問う愚かさ

【人生コラム】 一個人から法人、国家まで生産性自体が問われている。そもそも、これは異常である。未だ生産性の高さや向上方法を論議しているのではない。生産性自体の善し悪しが俎上に載っている。これは可笑しな話しだ。


人は生産しなければ、生活ができない。肉体労働者であれば、時間と引き換えに自身の肉体的な労働によって成果を創り、賃金という報酬を獲得する。知的労働者であれば、一時間毎ではなく、クライアントが提示した期間内に成果を挙げ、報酬を獲得する。生産して報酬を得て、生活設計を立てていく。


ある一部のメディアなどでは「生産性で人を計るな。」と声高だ。企業であろうと自治体であろうと、クライアントは受注者の生産性(成果ないし成果見込み)で、どの提案を採用するかを決める。費用対効果だ。正社員に対しても生産性の高い社員に対して、投資や機会を提供し、更なる成果を求める。これにより企業収益は向上し、生産性の高い社員へ報酬などで還元できる。正にモチベーションが上がる理由だ。


 生産性自体を問う者はヒッピーなのだろうか。ある意味では社会主義や共産主義である。端的に、「成果を計るな。」と言い換えられる。だが、そういった事を思う本人は、日々の生活で製品・サービスを取捨選択してはいないか。百円均一の商品にさえ、どのくらい使用できるかなどの効果を考えていないだろうか。全くもって矛盾している。この国では社会主義的な、共産主義的な思想は終焉している。


人生を日本でより良く生きていくためには、自身が望む生活を維持するコストを上回る成果を挙げる。企業も自由で、他の社員よりも多く売上高を叩く事も自由だ。アリとキリギリスであれば、キリギリスの言うことに耳を傾けないほうが良い。アリのように勤勉に働き、成果を出し続ければ、報酬は安定して冬に備えることができる。その収入をもって、まずは近い未来の人生から設計していく。


弱い犬ほど、よく吠えるもの。


記事:金剛正臣

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