不寛容が増える理由、「知」「情」「意」のバランスが悪過ぎる

【人生コラム】 “不寛容”。心が狭く、重箱の隅をつつくような行いや考えのことだ。


不寛容な人が増える。これは至極、当然だ。何故ならば、道徳・美徳という概念が無いからだ。単純に、寛容さを学んでない大人が増えている。この国は資本主義である以上、合理的にエコノミック アニマルとして生きた方が利益になる。だが、これでは単なる金稼ぎのために一生を使うことになる。至って虚しい人生である。


そうならないために、戦前は「知」「情」「意」の教育をしていた。敗戦後はGHQが日本の強さをくじくために教育にメスを入れ、「知」のみの教育とした。その最たるものが「ゆとり教育」である。ゆとり世代は他の世代よりも「情」「意」の学びが少ない。だから世代間でのコミュニケーションが難しく、というより理解できず、自身の意思が弱い。極端に言えば「知」、つまり知識のみだからとなる。


戦後七十年経って、米国は日本の大和魂を教育でも壊した。経済でも日本企業の資本に算入し、大株主として君臨。日本人のための企業を米国人のための企業に変えた。よって不寛容な人間は教育的に経済的に増えていく。米国としてはこれで良い。


米国が悪と言っている訳ではない。「おかしい」と抗わなかった国民の方が問題である。金稼ぎだけの人生は憐れであり、徳のない行いと心は自分を形成しない。ゆとり教育を終わらせたのは、安倍政権。この歴史的事実は大きい。米国に対し、行動を起した日本人達(内閣)である。そして道徳教育を教科とした。反対するのは米国に買収された者や朝鮮・中国系の者だろう。「知」のみで生きていけ、という者達だ。


歴史的事実をみれば分かるが、大正時代の子ども達の識字率などの知能のレベルは世界トップクラスだ。そういった教育を日本人が施してた。強いて言うなれば、「知」は後回し、「情」を育み、「意」という意欲、何をしたい、こうしたいを自然と喚起させる。その後に実現するための知識だ。戦前の教育に対し、反論する前に尋常小学校の国語の教科書を読んだのだろうか。甚だ怪しい。


大正時代の小学校では国語の時間が半分も占めていた。当たり前なのだが、母国語を学ばなければ、自身の考え・気持ち・行いを説明できない。説明できるようになって思考が始まる。思考の階層があることを知り、思考を深くでき、欧米に劣らないような発明や効率化を皆ができるようになった。だから国民レベルが高く、アジアで唯一、欧米に張れた。胸を張るべき教育であった。生産性がずば抜けている、ということだ。


心が狭い、せこい、そんな人間が増えれば、意思の共有なぞできないのだから、生産性は劣る。「情」も弱く、「意」が乏しいのであれば、持続性も人生観もない。自身が人生で何を成し遂げたいのか、を考えることもないだろう。結果、目先のことに絡んだり、「可愛い」を追い求めたり、無気力に生きるハメに陥る。


大人になれば、リカレント教育。これがこれからの時代の当たり前。

何も大学だけがリカレント教育ではない。今の小学校の教科書を読み直してみたり、戦前の教科書が一体、どのようなことを教えていたのか(決して戦争を煽るようなものではない。それは戦中の教科書)を知る。大人こそが「情」と「意」をリカレントで学び、子ども達、未来の日本に自身が何を残すべきかを考え、行うことで愉しみが増えるだろう。


記事:金剛正臣

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