女性の指導者はダイバシティの実践を、具体策三点

【社会コラム】 FPhimeは女性の経営者や政治家等、指導的立ち位置にいて権限を有す女性達を取材してきた。彼女達はダイバシティを声高に訴えるが、その女性本人がダイバシティで無いと見受けられる場面を多々、取材現場で視てきた。本稿はコラム。あくまでも一記者としての見地を綴る。


まずダイバシティについて。多様性を受け入れる社会を目指すものだ。例えば性的指向や宗教、根本となる意見や考え方を受け入れながら、一つの合意形成を図っていく。硬直的な組織や社会というよりは、柔軟的な組織や社会。


女性のリーダ達を取材していて思った事が「女性の意見を受け入れて」をよく発する事。彼女達の論調を聞いている限りでは「女性である自身の意見を受け入れて」に聞こえる時がままあった。その論調には他の女性の意見が入っているのだろうか。入っているのであれば、根拠はあるのか。そして、何よりもダイバシティは女性を受け入れるだけではない。



<二択を決める>

 少し大きなセミナのイベントではディスカスが大抵ある。各者の論調を聞いていると、明らかに対決姿勢である場合は置いておき、男性は他者の意見を肯定する事から始めている。だが女性は否定・排除・無視からはじめて、持論を展開。眉をひそめるパネラを視てきた。結論は、まるでダイバシティの観念が分かっていない。はっきり言えば、まるで子どもの論調だ。「私の意見は受け入れいて。周囲は間違っているのよ」と聞こえる。聞こえてしまうのだ。理由は、そういった女性のリーダの語調にあるだろう。非常に排他的に聞こえてしまう音なのだ。


本稿で女性を責めるものではない。政府が女性活躍を掲げて未だ数年。女性がブラッシュアップする為にマイナス点を反省し、活かす。これが本稿の目的である。


恐らく日本の女性は慣れてないのだろう。日本は未だに男社会である点は女性リーダ達は納得がいくだろう。その中で闘っていく為には、男社会のルール内で勝ち上がる必要がある。もし男社会での闘いを拒むのであれば、独立系として経済を創っていく必要がある。どちらか二択だ。



音・配分・傾聴

 本稿では前者で進める。ディスカスではマナーとして、反論したい論調ないし自身の前に話したパネリストを肯定する事だ。他者の意見を受け入れる。ダイバシティだ。優れたパネリストであれば、各パネリストの意見を昇華させ、持論に混ぜる。議論が望む成果だ。ただ殆どのディスカスは持論展開のみに終始している。これでは著書やブログで充分であり、有力パネリストが一堂に会した意味がない。


これは類推であるが、女性リーダは米国の「セックス・アンド・ザ・シティ」の類いを意識し過ぎだろう。あれはドラマであり、あの様な厳しい言葉遣いはNYでも希だ。これは国会でも見受けられる。日本でも米国でも厳しい口調の女性はCoolではなく、やや野蛮と見做される。だから論調の音を柔らかくする。


次に配分だ。自身の意見が五十ならば、相手の意見を五十ほど受け入れよう。日本の女性は一方的になりがちで、自身百になってしまっている論調が多い。これも学ぶ機会が無かったのだから、これから学べば良い。例えば、互いの要求・要望を箇条書きにして五対五のフェアにする。「なんで私が受けれなければならないの」となれば、ダイバシティは程遠く、独裁的である。男性のパワハラ・セクハラと何ら本質は変わらない。


最後に傾聴が大切。女性は兎角、話しを流す傾向があり、その後に持論が展開されるパターンを見受ける。話しを流したか否かは相手が決める事で、パワハラ・セクハラに同じ。聞いてくれたか否かは、オウム返しや質問による深堀りが最適だろう。


この様に女性が男性社会で闘える土台を自身で作る。まだまだ女性的な話の進め方を許容できる組織は少ない。だからこそ、硬直的な男性を真似るのではなく、日本的な大和撫子の精神で勝ち上がる方法もあるのではないだろうか。日本は女性の意見を汲みするのが成熟とは言い難い。女性の意見が巧く組織や社会に反映される様になれる筈だ。


記事:金剛正臣

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