長い経済不調の原因は躾けに在り

【人生考察】 平成も残すところ、後一ヶ月に迫る。四月一日には新元号が政府より発表される。四月は平成から新元号への精神的・社会的な移行期間となる。


この平成時代の三十年間はバブル崩壊に始まり、その時代の殆どを不景気が覆っていた。だが要約、ここ数年で少しだけの上向き(下げ止まり)を実現できた。


この三十年において失われたモノは経済だけでなく、民度も失われた。昨今の事件を見ていると、如何に躾けが為されていないかが分かる。先に躾けの意味を確認しておこう。「日本大百科全書:ニッポニカ/小学館」の冒頭を掻い摘む。

日常生活での行儀作法や生活慣習の型を身につけさせることをいい、おもに家庭内での初期教育をさす。しかし、以前はこのことばはもっと広い意味内容をもち、単に行儀作法を修得させるという狭い意味でなく、「性質をたわめ直しつつ一人前に育てる」ことを意味し、またその適用範囲も幼少期の訓育だけとは限らなかった


躾けは子どもだけとは限らない。躾けとは子ども達だけと捉えた大人達が民度を悪化さえた。いわゆる「華道」や「茶道」、「書道」、「弓道」という道が付くモノは礼儀作法から始まる。この礼儀作法を躾ける対象は子どもだけでなく、その道に入ってきた大人も対象である。無論、「報道」もこれに含まれる。報道記者には、それなりの礼儀作法が取材において求められる。


この躾がピークであったのは、日本が五大国となっていた大正デモクラシあたりだろうか。日本の民度の高さは海外が大いに認めていた。


今の日本人は、どうだろうか。桜が咲く頃、宴会等でマナーが悪いのは、外国人よりも邦人と聞く。日本人は海外みて、民度が高い人だろうか。昨今の「ゆるく」等の言葉は、言いかえれば「だらしない」だけであろう。咳をするにも口を手で覆わず、ぶつかっても謝らない。自己正当化に執着し、他人の意見に耳を傾ける気すら感じさせない。覇気は無く、ただ無難に日々を最小限の力で生きる。


その「ゆるさ」は益々悪化していき、ルールやマナーを無視し始める。社会常識は瓦解し、全ての基準は自身の感覚に委ねられている。自ら正誤の確認は行わない。そして空間にも影響が出始める。清潔な国として有名な日本だが、徐々に自身の空間から衛生さが下がっていく。「だらしない」に追加して「汚い」となる。咀嚼する際に、家畜のように音を立てて食べる者はいないだろうか。正に「汚い」だ。


日本の躾けは世界に誇れるものであった。だが、この平成の時代に躾けは極端に下がってしまった。核家族化が進み、母親が家庭では躾けの中心となった。核家族の対義である大家族では「サザエさん」でいうところのお爺ちゃん・波平が一家の大黒柱とし、祖父母は躾けにうるさかった時代の顕れだ。今の母親だけでは、子どもをしっかりと躾ける事ができない。それは新社会人をみれば、分かる事だろう。


社会に出れば会社が新人を躾けるものだが、昨今はパワハラ等を気にする余り、注意や叱咤に及び腰だ。社会人としての躾けが為されていない若い社会人は多い。それどころか、中年やシニアまで「だらしなく」、「汚い」者までいる始末だ。この躾けない、という現象は学校でも蔓延っている。いじめや体罰は昔からあったが、深刻化している背景に上司や教諭が「躾けない」を選んでいる。


身を美しくする、と書いて躾け。誰が躾けるかによって変わるものである。美に普遍性は存在しない。躾ける者の審美眼によってのみ、躾けが行われる。よって躾けとはマニュアル化できない。AIやロボには日本人的な躾けは不可能である。この平成で躾けは軽んじられてしまった。


子どもの自主性ばかり重んじていれば、一人前になる事はできない。悪までも社会の中で生きる一個人としての自主性だ。社会性が自主性よりも上位である。社会のルールやマナーを守る前提で、自由を謳歌できる。


昨今は人権について喧しいが、その人権基準でその国の民度は日本よりも上なのだろうか。日本において人権なぞを声高に叫ぶ以前の日本人の民度は高かった。そして今でも世界で上位である。ただ、大正時代では民度が世界トップだったかもしれない。どんなに自主性を重んじ、人権を重視しても、国民としての民度が落ちてしまえば、それは間違っている。


この三十年で日本が失ったモノは経済ではなく、本当は躾けなのかもしれない。

逆を言えば、明治時代の文明開化の様に、躾け次第で日本は向上できるかもしれない。

少なくとも「ゆるく」では、民度が落ちるだけだ。まずは大人から躾けられたい。



記事:金剛正臣





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