政治史上初の衆参三分の二か、輿論と世論

【政治考察】 平成二十八年七月十日に『参院選二〇一六』の投開票が行われる。十八歳と十九歳の二百四十万人の投票統計を総務省(大臣:高市早苗)が採るという。今後の選挙の貴重なデータとして、総務大臣をはじめ自民党は有益に利用するだろう。当日の投票先は、ギリギリまで四割の有権者が決めてないという。新安保法制やTPP、経済、雇用、社会保障等、論点は的に亘る。何よりも、今回で政治史上初の改憲勢力が三分の二を占める、改憲体制が整う可能性がある。先んじて、公明党の山口那津男 代表は、憲法九条を変えないと放った。


ところで「世論」は知っているだろうが、「輿論」を知っているだろうか。「世論」はセロンと読み、「輿論」はヨロンと読む。現在では「輿論」の字を使わず、「世論(ヨロン)」とたいていが読むだろう。この二つは本来、意味が異なる。「世論(セロン)」は、感情的な多くの人の意見。「輿論(ヨロン)」は、論理的な多くの人の意見だ。現代の日本は、「世論(セロン)」がはびこり、ポピュリズムと呼ばれる。「輿論(ヨロン)」は、オピニオンだ。



<感情論で税金を使って良いか>

 感情論の「世論」では、良い政治に良い社会にならない。棄権は意見ではない。自己満足であり、感情的である。少なくとも論理的ではない。それは司法府でも同じだ。民事訴訟で訴えられた場合、裁判所に出廷ないし答弁書を提出しなければ、訴えた側の言い分を呑んだことになる(「民事訴訟法」第百五十九条第一項・第三項)。この国は法治国家なので、三権に則るべきだろう。


論理的な「輿論」の形成は難しい。まず国政を論ずる場合は、相当程度の知性と忍耐力が問われる。よって大衆迎合的なメディアにおいて「輿論」は、取り上げられ難い。視聴率やアクセス数を第一とすれば、無理な話しだ。政治に興味がなくて当たり前なのだ。政治に関与する為には、相当程度の知性を必要とする。感情論で税金を使われたくはないだろう。



この国の大きな問題は

 合理的な判断であれば、AIの政治介入がある。記事「選挙ってIT/AIでどう変わるの?先駆者らが語る次の選挙/選挙ドットコム」が、そんな未来の可能性を示している。一方で、シニア デモクラシがある。有権者(投票者)の大半がシニア、という問題だ。こちらに関しては、記事『「高齢者は若者より1億2000万円お得」小黒一正教授が明かす世代間格差【参院選】/ハフィントン・ポスト ドットコム』でシニアだけでなく、中年の不安が募り保守票へ回る点も指摘している。


小泉進次郎も選挙中に言っていたが、「考える事が大切」である。但し、考えるは人間活動の中で最高のエネルギ消費となる。それは、一番大変なのが「考える事」なのだ。「世論」は考える事を放棄している。投票率をみれば、大人達の政治への意見を聞けば分かるだろう。しかし彼らは憲法上、主権者だ。主権者が考える事を放棄したら、国全体に仕える政治家は自身等で考える。

そうこの国の問題は、考える事を大半が止めてしまった事だ。



<さあ、「輿論」を>

 「世論」は、日々の生活が大切だ。主権者がそれなら、政治家も日々を重視して何が悪いのだろうか。この国を株式会社日本とすれば、株主は国民だ。株主が取締役会(≒三権)に考える事を任せたなら、その責めは株主が負うべきだろう。政治家ら公務員が悪いのではなく、考えない国民が悪いのだ。国民は人の為を考えているだろうか。国民は社会や国の為を考えているだろうか。そして行動しているだろうか。


より良い結果を望むのであれば、「輿論」の形成が必要だ。真剣に国民が考え、行動し始めた時に政治家ら公務員は真剣に動く。棄権や投げやりで逃げるなら、政治家ら公務員が逃げても何も言えないだろう。今の生活や社会で辛い、厳しい、苦しいと思うのであれば、いい加減に人や社会、国の為に考え行動したら良いのではないだろうか。


今日、国の在り方を大きく変える、日本国憲法史上、初の改憲体制に入るかもしれない。記事「【参院選】その候補、国会で何してた? 発言ない議員が一目瞭然のデータベース/バズフィード」も有用だ。自身と次の世代が幸せに生きる事ができる様、感情的でない論理的な「輿論」を創ろうではないか。

(了)

 

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