【社会・教育論説】 五月五日は「子どもの日」。昭和二十三年に公布、即日施行。『祝日法』の二条に同日の意が記されている。
子どもの人格を重んじ、子どもの幸福を図ると共に、母に感謝する
コロナ禍により、日本社会が如何に子ども達に対して冷たいかが判明した。コロナで死亡する子どもは皆無にも関わらず、シニアを核とする大人達の自粛脅迫により、自殺する子どもは増え、イジメや虐待も増加。保護者の大人達も子どもの為に戦ってないと言わざるを得ない。ただ、黙って保身第一に子ども達の自由を奪う事に手を貸してしまっている。
心ない大人達が多過ぎる。
報道府は、心ある一部の大人達が国の中枢(永田町・霞ヶ関)で戦っている事実を報じてきた。時には学生までもが、次の世代の子どもへ負荷を残さない為に頑張っている。漸く、子どもの事を真剣に考える公的専門機関「子ども庁」の創設に向け、政府や国政政党が動き始めた。現行憲法下で、初の本格的な大型子ども案件が実現した。
子ども庁創設は端緒だが、報道府の子どもへの想いに共感し、実際に行動してくれた国民民主党と自由民主党には感謝と敬意を示したい。
イジメが原因となった北海道の十四歳凍死事件では、学校側が保身の為に緊急保護者会でも担任と教頭は頭を下げなかったという。担任に至っては、保護者からの問いにも何一つ口を開かなかったという。何も自身からは説明も謝罪もせず、ただ身を隠す様に立っていたという。
ひと昔前までは、ヤンキー等の不良が「社会のクズ」であった。今では学校の教師や教育委員会が「社会のクズ」に変わってしまった。彼らを徹底的に“子ども正義”の名の下に、戦わない保護者・PTAも「社会のクズ」の一端を担ってしまっている。
よって、YouTuberゆたぽんの様に「社会のクズ」だらけの大人社会へ革命を起こしたくもなる。その保護者は、ひと昔前までは「社会のクズ」扱いであっただろう。しかし、現在では贖罪と更生により、立派な持論を展開できる子どもを育てた。その保護者は、現代の鑑(カガミ)でもある。子を見る限り、今後、如何様な社会に変容しようとも、しっかりと生きていける“生命力”を有していそうだ。真っ当な保護者である。
「自粛し過ぎると、子どもが死ぬ。子どもなら死んで良いのか」
言葉遣いは綺麗だが、子ども第一ではなく保身第一。言葉遣いは綺麗ではないが、子ども第一。今の社会ではどちらが多いだろうか。前者が現代の諸悪の根源である。報道府は、言葉遣いを二の次と考える。子どもが心豊かで、未来に希望を抱いている事が最上。当然、ベストは子ども第一で、言葉遣いが綺麗な事。それは子ども第一を達成してから考える事。
現段階では子どもの暴力行為増、子どもの喫煙減だが麻薬増、子どものイジメ増、子どもの自殺増等と警察庁等の統計データには目も当てられない。昭和の様に言葉遣いは二の次、子ども第一に戻すべきである。結果をちゃんと見る。経過だけを整え、責任逃れをし、結果を直視しない大人達へ報道府は、意を共にする真っ当な大人達と社会正義の中の“子ども正義”を掲げていく。
「子どもの人格を重んじ、子どもの幸福を図ると共に、母に感謝する」
毎日、子どもの日でありたい。
(了)
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