【社会考察】 平成二十九年一月十日に現代ビジネス/講談社が記事『天皇と安倍総理が「決定的に対立する日」』を配信し、天皇陛下と首相官邸が齟齬を来たしていると、陛下のご学友・明石元紹の言葉を基に伝えている。これは陛下・宮内庁(宮中)と総理・官邸(行政府、府中)の構図でもある。日本の前提として、天皇サイドの宮中と総理サイドの府中に大別されている点を知っておかねば、この問題は解らない。
宮中は基本的に府中と相容れない。そして非常に複雑で特殊な歴史と文化を宮内庁はもっている。
現在の宮内庁は内閣府の機関で総理の管理下にあり、皇室関係の国家事務を担い御璽・国璽を保管する。つまり総理の下に位置付けられている。しかし大日本帝国憲法下では「宮内省」といい、皇室一切の事務について機関・天皇を輔弼する「宮内大臣(宮内卿、宮相)」が置かれた。最盛期の「宮内省」には六千人超の職員を有す大組織だった。現在の宮内庁長官である「宮相」は閣僚(内閣の一員)では無い。内閣からは独立した機関だった。初代の「宮相」は、初代の総理である伊藤博文(辛丑)が兼務した。
<静かな宮中、動く>
一方、宮中には事務方である「宮内省・宮内大臣(宮相)」以外に、現場である「内大臣府・内大臣(内府)」が置かれた。「内大臣府」は「宮内省」の外局とされ、少人数の組織だった。「内府」も「宮相」に同じく閣僚では無い。初代の「内大臣(内府)」は藤原鎌足(乙巳)。宮内席次によれば、「宮相」「内府」は各国務大臣と同じ第五。当時「宮相」は御前会議の構成員で、「内府」は重臣会議の主宰であった。更に宮中には、政治方といえる天皇の最高諮問機関「枢密院(枢府)・枢密院議長(枢相)」を創設。「枢府」は憲法の番人。「枢相」は宮内席次で第二の総理に次ぐ、第三であった。
この様に天皇の下の宮中には事務方であるA「宮内省・宮内大臣(宮相)」、現場であるB「内大臣府・内大臣(内府)」、政治方であるC「枢密院(枢府)・枢密院議長(枢相)」、軍事方D「侍従武官府」の主要四機関で天皇を府中(行政府)から守っていた。だが戦後のGHQによりBとCは無くなり、Aも規模を縮小させられ総理の下となってしまった。それが現在の宮内庁だ。予算規模は百七十億円程度。
しっかりと寄り添った皇室
古代・飛鳥時代(律令制度)から歴史を有す宮中・宮内庁(省)は誇り高く、武家政権・幕府等も含めて府中(行政)サイドに安易に与しなかった。現・長官の山本信一郎(庚寅)や次長も元々は府中サイドの人間で、宮中サイドとの信頼関係性は想像に難くない。ここで冒頭の記事に戻れば、宮中と府中が基本的に相容れない点を知れるだろう(記事『宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位/朝日新聞』)。端的に日本史というものは、カタチは変われど、宮中と府中の歴史である。
五日の一般参賀最終回で、お言葉を終えられた陛下に皇后陛下が一言。一定の間隔を開けて立たれていた皇太子殿下らが陛下を中央とし、肩が触れ合う程に間を詰めて寄り添い、国民らに向けて御手を振られた。宮内庁は“偶然的”と表現。最終五回目なので、撮影するメディアはプレス席にいなかった。時折、為さる光景だが、本年はまるで皇室(天皇皇后両陛下・東宮家・秋篠宮家)の一致団結を象徴するかの様な、しっかりと寄り添った、正に日本を象徴する御家の画であった。
日本国憲法下にて、七十年間も府中に抑制されてきた宮中が大きく動いている。
画像引用:宮内庁
記者:羽田野正法
0コメント