【政治考察】 平成二十九年七月二日に『都議選二〇一七』の投開票が執行された。その結果、都議会の第一党は事後公認を含めて五十五議席の都F(代表:小池百合子)となり、第一党だった東京自民(会長:下村博文)は、過去最低であった三十八議席を大きく下回り十五席も減らし、史上最低の二十三議席しか獲れず第二党に下がった。公明の議席数に同じ。
一千百万の都民は百合子都政を支持し、百合子派(都F、公明等)による四年間の議会運営を信託した事になる。翻って自民に関して、都民はNOを突き付けた。ドンと呼ばれた内田の支配に併せて、安倍政権は否定された。
期日前投票は、前回より六割多い百万人近く。投票率は平成以降では元年の五十八.七四㌫には及ばず、五十一.二八㌫。前回より八㌫近く上げた。
<フラグを紐解く>
本選の結果により自民には次期総選挙にて、政権交代へのフラグが立ってしまった。フラグとはIT用語で、ある条件の成立可否を決める変数の事。本選ならば、非自民が都議会の第一党を獲った事だ。
遡る事、昭和四十年。この年の都議選は投票率が六割で、当時の社会党が第一党を奪取。自民は第二党に。二年後の第三十一回 衆院選では、自民・佐藤栄作(辛丑)の活躍により安定多数を維持した。投票率は七割だった。
社会・土井たか子(戊辰)が日本初の女性党首となった頃、最初の都議選は平成元年。投票率は六割。自民は二十議席を減らす歴史的敗北を喫すも第一党を死守。社会は第二党となった。だが、その年の第十五回 参院選では投票率が七割近くに上り、改選議席で社会が自民を巻き、自民を過半数割れに。翌年の二年、政権選択選挙となった第三十九回 衆院選。今から十五年前の投票率は七割超え。「与党が変わるか」と思われたものの、自民・海部俊樹(辛未)の踏ん張りで政権交代ならず。その時の自民の幹事長は小沢一郎(壬午)であった。
その後の五年に当時、日本新党の小沢の手腕により細川内閣が発足。自民は結党以来、初の野党になった。
一千万都民はジャッヂした、次は一億国民の番だ
今から八年前。麻生政権下であった二十一年の都議選の投票率は、五割強。当時の民主党が第一党を奪取。自民は第二党に落ちた。その年の第四十五回 衆院選は政権選択選挙となり、投票率は七割に達し、自民が大敗。民主が政権を獲得し、自民が再び野党に。代表は鳩山由紀夫(丁亥)、小沢は代表代行であった。
そして本年二十九年。都議会で自民は第一党から落ちた。国政で自民を二度も野党とした、小沢の剛腕は「野党共闘」を声高に唱えている。政権交代のフラグは立った。次期衆院選は、どんなに遅くとも来年冬までにある。一昨日に秋葉原で初めて街頭演説に立った安倍晋三(甲午)総理には、「帰れ。」「辞めろ。」コールが鳴り響き防戦一方となってしまった。来年冬まで解散せずに保つだろうか。
鍵は当然に、小池百合子(壬辰)都知事。もし国政に舞い戻るなれば、マドンナ・たか子の様に政権交代に失敗するか、はたまた政権交代を実現したクラッシャ・小沢と組み、新政権を創るか。全ては投票率に掛かっている。七割に達すると、事が起きる。詰まり百合子次第で、次は一人ひとりの国民が未来を決めるのだ。自民を続けさせるか、否か。
記事:金剛正臣
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