日本人のルーツ、和を貴ぶ『神仏習合』の始まり

【日本考察】 二月十一日は『建国記念の日』。旧暦で元日。学術会議等の左翼の歴史学者達により、戦前の『建国記念日』をGHQが消し去り、戦後で戻す際に左翼学者により、『建国記念日』は『建国記念の日』となり、曖昧化されている。よって、日本人は日本国の建国者を知らない。


日本国の初代天皇・神武天皇(庚午)の即位日は辛酉年の元日だった(神武朝日本の開始、現在に至る)。神武天皇が日本国の建国者。明治に太陰暦から太陽暦へ変更。日付がずれた。


古代日本より干支(六十年一周期)で年月を記してきた為、逆算推定できる。令和四年は、皇紀二六八二年。西暦二〇二二年。差は六百六十年だが、現在の西洋基準の暦のカウントとは最初期に異なる、と見做されている。


一千四百年頃前から日本には“神道”と“仏教”がある。「宗教統計調査(令和三年度)/文化庁」に依れば、信者数は神道系で八千七百九十二万人、仏教系で八千三百九十七万人。日本人は神仏習合している為、重複している。


  1. 神道とは何か。一重に、自然を“神”とする日本人の祖先及び日本国土を重んじる宗教
  2. 仏教とは何か。一重に、人を含む宇宙の“真理”を追究する学問的宗教



<神と霊>

 天皇家は縄文時代から征西し、弥生時代の『西日本大戦(神武天皇等)』を経て、古墳時代に略全豪族と血縁関係を結んだ為に日本人の家長となった。現在の日本人の元を辿れば、DNA的に天皇家へ行き着く。奴隷が居ない理由。神社に祀る神々は、富士山等の日本国の自然を祀る「自然神社」と偉業を成し遂げた人物を祀る「人物神社」に分ける事ができる。


それは共に霊(禮)を祀っている。霊廟が典型的か。西洋とは異なり、日本では死ぬと霊に成る。それは人に限らない。“自然に還る”の意。日本では霊を宿す事もできる。“神懸り”。時として現人神となり、現代人でも生きている人間(ないし技術等)に対し、“神”と賞賛す。神州・神国日本と呼ぶ所以。神(自然を敬い、偉業を成し遂げる人物)を目指す道を、神道と謂う。


ギリシア神話等の西洋の神々は実在しないが、日本神話の神々の実在を口伝してきた。



先祖を祀る

 他方、仏教では仏壇を構え、近い先祖を祀る。遠い先祖も含めるとお墓に祀る。仏教でお墓があるのは東アジアのみ。北側・大乗仏教でも南側・小乗仏教でもお墓は無く、仏教の発祥地・インドにも他宗派が強い為、お墓は少ない。日本の火葬率は世界一。お墓参りでは墓石に向かい合掌する。先祖を敬う。


仏教の菩薩・仏は十界の最上部に位置する。「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞(ショウモン)・縁覚(エンガク)・菩薩・仏」。天台宗系は六道に四聖を追加した。天台宗は「法華経」が根本仏典。平安時代・最澄が開いた。同時期には密教・真言宗を開いた空海(弘法大師)がいる。東京には浅草寺や西新井大師等がある。


天台宗から発展した鎌倉時代・日蓮宗の曼陀羅(仏壇に飾るもの)には「天照太神」「八幡大菩薩(八幡神)」が四天王「(東)持国天・(南)増長天・(西)広目天・(北)多聞天」に囲まれている。神仏習合している珍しい仏教宗派。


神道と仏教はアプローチが異なるだけで、日本人の先祖を敬い、祀る事に違いは無い。




<初の神仏習合>

 それは、一千四百年頃前の「飛鳥時代」から始まった。用明天皇の第二皇子・聖徳太子(甲午)の功績の一つ。仏教の重要性は世界初の憲法『十七条の憲法』に記した。第一条「和を以て貴しと為す」に続く第二条。本憲法も聖徳太子の功績の一つ。


第二条。心を込めて三宝を敬いなさい。三宝とは仏・法・僧の事であり、生きとし生けるもの全ての究極的な拠り所となるものである。

何れの世でも何れの人でも、この仏法を貴ばない事があろうか。

そもそも人として救いようのない極悪人は滅多にいるものではなく、三宝を人生の拠り所としてよく教え導けば立派な心をもつ様になり、必ずや善人となる。

三宝に依らなかったら一体何に依って邪な心を正す事ができようか。
(現代語訳:永﨑孝文 教養として読んでおきたい「十七条憲法」)



荒い言い方をすれば、神道は右脳的、仏教は左脳的と表現できる。これは西洋でも同じであった。日本が弥生時代であった頃の古代ギリシアでは、アリストテレス(丁酉)等の偉人が居た時代に「宗教」と「科学(法哲学)」に分かれた。弁論術や数学、天文学等と現代に繋がる科学文明は古代ギリシアが祖とされる。



宗教と科学

 右脳的・左脳的とはプロモーション・プレゼンの基本。抽象的なイメージだけでは、詳細に論理的に記した文章だけでは伝わり辛い。記事等もそうだが、写真等の画像がある記事と画像だけ、図の無い論文は分かり辛い。インスタでもキャプション(説明書き)は付けるもの。


古代ギリシアの偉人達は、それに気が付いた。右脳的(感覚的)宗教と左脳的(理論的)科学に分ける事により、人(文明)は進化できると。一つの“和”である。


日本でも縄文土器等の様に宗教と科学(修飾用と生活用)が分かれていた。科学の重要性も既に認識しており、当時の縄文人は狩猟民族でもあり、農耕民族(実のなる木の栽培等)であった。縄文後期の寒冷期には人口が激減。当時、東日本に集まっていた人々は緯度の低い西日本を目指す。そこには西日本の縄文人に併せて、南中国等から来た渡来人も集まり、『西日本大戦』に至る。




<平和主義の分岐点>

 渡来人は稲作という科学を知っていた。製鉄・製銅も発達した。しかし各エリアから来た渡来人同士、西日本にいた縄文人と貿易拠点・福岡を巡り、争った(環日本海経済圏)。争いは弥生時代の数世紀に及び、古墳時代も含めて縄文時代の様な平穏は訪れなかった。弥生時代は日本初の国が乱立した内乱時代とも言える。古墳時代は革命時代(王権奪取時代)と呼ぶべきか。


支那(中国、China)の台頭もあり、祭祀を中心とした政治には限界があった。科学技術の進歩により、鉄剣等の殺傷能力は高まり、武力解決の日常を変える必要があった。飛鳥時代に若き聖徳太子が選んだのが仏教だった。心の安らぎだった。野蛮な暴力主義から平和主義への移行となる。


既に前代・弥生時代の支那では「秦」が韓非子の“律(刑法)”を以て統一を維持。後代の聖徳太子は“律”を用いず、“和(話し合い)”を掲げ、仏教という日頃の行い(善行、心の安らぎ)の具体を選んだ。多額の国家予算で多くの仏閣も造った。建築技術という科学。これにより大和朝廷は弥生・古墳時代よりも安定化し、次ぐ「奈良時代」にて全国政治を行える基盤を創った。



三神宮

 神道の方では、日本で二番目に古い国書である奈良時代「日本書記」にて神宮を記す。「伊勢神宮(写真上)」「出雲大神宮」「石上神宮」の三神宮。次ぐ平安時代「延喜式神名帳」の神宮は異なる。「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」の三神宮。主祭神が異なる。


日本書記の三神宮

  1. 伊勢神宮:天照大御神;天津神
  2. 出雲大神宮:大国主命(オオクニのヌシのミコト、スサノオの子孫);国津神
  3. 石上神宮:布都御魂大神 (フツのミタマのオオカミ、武甕雷大神の剣の霊威)、布留御魂大神 (フルのミタマのオオカミ、饒速日命の宝の霊威)、布都斯魂大神 (フツシミタマのオオカミ、スサノオの剣の霊威)


延喜式神名帳の三神宮

  1. 伊勢神宮:同神;同
  2. 鹿島神宮:武甕雷大神(タケミカヅチのオオカミ);天津神
  3. 香取神宮:経津主大神(フツヌシのオオカミ);天津神



西の主基と東の悠紀

 奈良時代、前者の三神宮で出雲は、西日本大戦下である「国譲り」の相手方(葦原の中つ国を平定)へ敬意を払ったと云えよう。大国主は事実上、西日本のトップだった。石上は物部氏の系。国津神は西日本の神々。「主基(スキ)の地方」の人物。


平安時代、後者の三神宮では、全て天津神となっている。東日本の神々。武甕雷・経津主の両名は大国主と国譲りを交渉した。葦原の中つ国に対し、高天原。「悠紀(ユキ)の地方」の人物。東京都神社庁は悠紀を「最も神聖で清浄である」、主基を「次」と説明する。現在でも皇居内に悠紀殿・主基殿は在り、天皇即位時の大嘗祭にて儀式を行う。記憶に新しいだろう。


そして、この平安時代に漸く「大宝律令」という日本初の刑法が出来上がる。それまでは日本には刑法が無かった点が重要。




<和国>

 神武天皇が東征時に背負った南九州の国の名は『和国』。争わない、という意味がある。当時は、大戦下なので一定の武力が必要だった。しかし、その後は異なる。辿り着いた紀伊半島にて「大和朝廷」へ繋がる平和的統治を行い始める。依って、伊勢神宮は紀伊半島に在る。平和の国の起源の地。


それから十世紀以上経て、聖徳太子は隋帝へ「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書簡を出し、日の本の国である点を強調した。鹿島・香取神宮の“日立”、南九州の“日向”、そして両地の真ん中に位置する畿内・紀伊半島の“日本(大和朝廷)”。


先の書簡は第二次遣隋使。第三次遣隋使では「東の天皇、敬(ツツシ)みて西の皇帝に白(モウ)す」と。外交文書に初めて“天皇号”が使われた、と竹田恒泰は「天皇の国史/PHP研究所」にて記す。“天の皇帝”の意。



古来からの日本人のアイデンティティ

 神武天皇は和を以て闘い、聖徳太子は和を以て貴しと為した。それは現在までの日本にも引き継がれている。建国記念の日に我が国のアイデンティティ“和”を知る。


尚、西日本大戦時の“倭国(ワのクニ)”とは、国の姓自体が“倭”。イ(東)の人の意。日本国の姓は“姫”であるので、倭国に対しては“姫国(キのクニ)”となる。天皇家に一般的な苗字が無い理由は、国姓がある為。そのお家が国そのものである為。


元号も日本しか使ってない。現在の支那は西洋の思想「マルクス=レーニン主義」を採り入れた中共が統治している為、支那における歴代の国々の文化を踏襲していない。日本は、未だに一つの王朝である為、二千年以上の文化を保存しており、その中には支那の歴代文化も含まれる。


日本文化の“和”の成果(パフォーマンス)は、甚大。


日本のアイデンティティである“和”がバブル崩壊後に崩れたから、社会が乏しい。今一度、飛鳥時代や鎌倉時代の様に神道・仏教を学び、“和”の具体を体現する時かも知れない。


記事:京秦正法、撮影:金剛正臣

画像:憲法十七条 <国民精神文化文献 第25>/日本の古本屋、環日本海環境協力/富山県、正宮 皇大神宮/伊勢神宮、大嘗祭が行われる大嘗宮平面図/時事通信

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