【社会考察】 大阪の高校生を称する男性が教育の現場を指摘した。記事『暴力のない「平和」な学校:真の恐怖とは? --- 實川 瑞樹/アゴラ研究所』では暴力のない世界は平和なのか、との問いと現状を記している。結論は教師・教諭がPTA等の顔色を伺い、萎縮し、問題を起す生徒に対して抑止力が何も無く、それらの生徒が増長して、被害を受け続ける生徒は九年間で大人達への不信感と社会への絶望感を抱く。
体罰を禁止した時点で予測できた事実である。教師・教諭は見て見ぬ振りをする事が無難策となる。それは生徒の虐めや自殺を放置する事が無難である事と同義だ。行き過ぎた体罰は悪だ。体罰により科学的に悪い結果を齎す事もある程度、立証されている。だが、問題児への対処はどうなったのだろうか。問題児によって被害が齎された生徒は学校で誰が守るのだろうか。
体罰を禁止するならば、波及的な対処と保護も一緒に考えなければならない。体罰だけを禁止すれば、問題児は増長し、社会に出てまともなコミュニケーションが取れなくなる。ゆとり世代をみれば、彼らも結局のところ、被害者である事が分かる。周りの大人が叱らずに無難に、見て見ぬ振りをしてきたのだから。
パワハラとセクハラも同じだ。波及的な対処と保護は考えられているだろうか。近く都議会に提出される禁煙条例も同じだが余りにも短絡的であり、未来を予測してないと言わざるを得ない。パワハラは法的に業務上の指導・注意の範囲を超えているか否か、が法廷で問われる。パワハラ被害を訴える殆どの者は恐らく法廷でパワハラとは認定されないだろう。だが世間の上司は萎縮する。業務上の適した範囲内でも指導・注意を無難に避ける。会社内で問題を起したくないからだ。
波及的な対処は指導・注意が為されない社員を如何に育成し、社員が上位の職域に就けるように守るか。この概念が抜けている為、現在の二十代の社員は指導・注意を上司からされなくなっていき、三十代での一般的なビジネス能力が上の世代よりも下回る事になる。パワハラを強調する者は、この未来を分かっているのだろうか。指導・注意してもらう機会を二十代から社会的に奪っている事になる。
セクハラはどうか。ヘアスタイルやファッションを褒めるとセクハラ。声を掛けても相手が不快に思えばセクハラ。これでは恋愛に発展し難いのではないだろうか。元・財務省の事務次官の様な仕事中に局部を口に出す者は論外だが、現況はあまりにも過剰な意識だ。男性も女性も褒める事はしなくなるだろう。声を掛けなくなるのだろう。キスをしたい時、性行為を行いたい時、同意の証拠を保管する為にLINE等で相手に許可を申請するのだろうか。だが、これが訴えられた際への無難策となる。
少子化を加速させているのは誰か。教育の現場で社会への絶望を与え、会社では成長の機会を奪い、男女の出会いのきっかけを失わせ、官公庁も含めてブラック企業根絶とは程遠く、若手は未来設計を放棄したくなり、隙間時間で現実逃避を模索する。
政治家や官僚達が無責任かも知れない。だが彼等を養っている主権者たる国民は無責任ではないのか。今の社会に導いたのは、その時に投票権や権力を有していた上の世代ではないのか。彼等はゆとり世代を含めて、下の世代に社会的責任を果たしているのか。正義を掲げて体罰やパワハラ、セクハラを過剰に強調している。その波及的責任を果たさない者が声高に訴えている。
少子化の原因をつくっているのは若い世代ではない。闇雲に禁止事項を増やして、その後の責任を果たさない上の世代に他ならない。若手は自身の人生に責任を果たしてくれる者の意見のみを採り入れられたい。そして団結して闘って勝たなければ、自己陶酔の無責任者に一生、搾取され続ける事になる。
記事:羽田野正法
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