【政治考察】 平成三十年九月三十日に沖縄県知事選が実施され、野党が推す玉城デニー(己亥)前・衆議が三十九万七千票を得て当選。次点の与党が推した佐喜真淳(甲辰)前・宜野湾市長の三十一万六千とは八万票の差があった。投票率は六十三.二㌫。玉城新・知事は翌日に日米両政府に対して普天間基地の閉鎖・返還及び辺野古移設の断念を求めていく考えを示した。
普天間基地は市街地の中心部を占めている点等から返還を求める声があった。こういった国内の米軍基地は昭和三十五年の岸内閣が結んだ『日米地位協定(日米安保条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定)』を根拠として存在している。『日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)』も同年に結んだ。
平成七年に「沖縄米兵少女暴行事件」が発生。米海軍軍人らが十二歳の女子小学生を拉致して集団強姦した事件である。日本の警察は逮捕状を出したものの、日米地位協定の為に被疑者の身柄を米国から引き取る事ができなかった。この事件を契機に鬱積していた県民の反基地及び反米感情が巻き起こり、米軍基地撤廃まで要求する運動が起こった。そして「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(SACO)」が設置された。
八年に橋本内閣で普天間基地返還の方向性が決まる。SACOは五から七年後までの全面返還や代替施設として県下の他の米軍の施設及び区域におけるヘリポートの建設を中間報告として明記。これを受けて日米は移設候補地の選定に入る。九年には名護市で「米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票」が行われ、反対票が五十二.九㌫となった。だが当時の比嘉鉄也 市長は海上ヘリポート基地の受け容れを表明した。十年の稲嶺惠一 知事が県内移設を容認した。
十三年に米「同時多発テロ事件」を契機に米国は本土防衛に舵を切る。十八年に移設先の現行案が合意される。二十一年に日本は政権交代が起き、鳩山政権が「最低でも県外。」と宣言するも断念。
二十五年には当時の仲井眞弘多 知事が名護・辺野古移設に向けた埋め立てを承認。二十七年に翁長雄志 前・知事が埋め立て承認を取り消し。国を相手取り、裁判に持ち込む。同年に安倍内閣は日米地位協定以来で初となる国際的な約束『環境補足協定』を結んだ。二十八年に福岡高裁で県の敗訴が確定。報道現在で工事は中断中だ。逆に国が裁判に持ち込む段階である。
この様に、日米両政府が進めようとしている防衛の話しを沖縄が長々と足止めしている。玉城新知事は両政府に断念を求めるそうであるが、海洋進出を目論む中国に対して沖縄は如何に防衛したいのであろうか。沖縄は軍事的に日本及び米国の要衝である。沖縄そのものの防衛が日本そのものの防衛である。もし基地移設反対派が日米地位協定を変えたいのであれば、政権を奪取して米国政府と話し合う方が妥当ではないだろうか。
画像引用:昭和三十五年、日米安全保障条約の批准書交換式。批准書に署名する藤山愛一郎外相とダグラス・マッカーサー米大使/毎日新聞
記事:金剛正臣
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