【政治考察】 平成三十一年二月八日付けの米・ブルームバーグ(CEO:マイケル・ブルームバーグ)のインタビューで大韓民国(統領:文在寅)の三権の長の一人である文喜相(乙酉)国会議長は、天皇陛下を「彼は戦争犯罪の主犯の息子」とし、従軍慰安婦問題で陛下の謝罪を求めた。これに対し、日本政府は韓・国会議長に謝罪と撤回を求めた。
一昨年の文政権の発足以降、日韓関係は悪化の一途を辿っている。その全ては文政権の歴史改竄と経済政策の失敗が問題だ。
先ず、昭和天皇は戦犯ではない。昭和二十一年の「極東国際軍事裁判(東京裁判)/極東委員会」では、昭和天皇の不起訴が合意された。文国会議長の歴史認識は過ちである。経済政策の失敗としては、強制的に民間の最低賃金を直近二年で三割近くも引上げた為に、オーナーよりも従業員の給与が多い状況も発生。事実上、新卒の大学生の就職率は十人に一人、とまで言われている。
下がり続ける政権支持率を堰き止める為、国を挙げた反日に文政権は勤しむ。首都・ソウルの市教育庁は市内の全小・中・高校(千三百校)へ抗日音楽教材を無料配布する有り様だ。来月一日の「三・一運動(独立運動)」が百周年を迎える為、文政権は日本を攻撃する。
<日本は韓国にお願いされて併合した>
この独立運動は大正八年。現・韓国の樹立は昭和二十三年。遡っていくと、昭和二十年から米・軍政下、韓国臨時政府の樹立が大正八年となる。昭和二十年から明治四十三年の三十五年間を大日本帝国(天皇:明治帝)は大韓帝国(皇帝:隆熙帝)を併合して統治した。大正八年に戻すと、当時の朝鮮では、他の政府も樹立して乱立していた。所謂、日本による統治に反対する勢力だ。
では、何故に大韓帝国は併合に至ったのか。韓国併合自体は明治四十三年。西欧列強に極東の小国が抗うべく、日清・日露戦争を勝利。日本は同じアジアに独立国家を求め、清の臣下であった李氏朝鮮(国王:高宗)に独立を働きかけ、明治三十年に大韓帝国となった。だが朝鮮は日露戦争前には、国王が朝鮮内のロシア公使館に移り、政務を執っていた。これを「露館播遷」という。今の日本で言うなれば、麻布台のロシア大使館で安倍政権が政務を行うに値する。異常な状態である。公使館は大使館の格下。
日露戦争後に欧米が認める中、日本は大韓帝国を保護国とし、真の独立を推し進めていた。筆頭は初代の伊藤博文(辛丑)総理大臣である。韓国に統監府を置き、初代の統監に就いた。だが明治四十二年に朝鮮人に暗殺され、国内だけでなく、韓国政府及び第一政党からも併合を提案された。日本は併合を避けていたが、欧米も東アジア安定の為に併合を支持した為、決断。ロシアが朝鮮に触手を伸ばしていたが、手を叩いた。ともすれば、現在の北朝鮮だけでなく、朝鮮全土がロシアの影響力下となっていた可能性もある。
詰まり、日本は韓国を侵略してない。
天子と朝貢国
韓国併合から、三百年程前に豊臣秀吉は二回に亘って朝鮮出兵を行った。一時は現・ソウルを始め、現・平壌まで占領したが、失敗に終わった。それから九百年程には「白村江の戦い」等で知られる朝鮮の南西部・百済と親交があった。属国関係であったか否かは、未だ明瞭ではないが、仏教伝来や日本古墳等で証拠が残っている。但し、当時より朝鮮は中国にとって朝貢国である。日本は聖徳太子の「日処るところの天子」より朝貢国ではない。「天子」とは中華思想の世界観での中央である。日本は中央を当時に外交で謳った。
この様に古代は別にしても近代の史実は明瞭である。文政権の歴史観は改竄に他ならない。我々、日本人ができる事は懇切丁寧に、史実を伝える事である。決して感情に訴えてはならない。何故なら、朝鮮では『恨(ハン)』も文化だからだ。そして忘れてはならない事は、少なくとも韓国とは共に自由主義陣営である事だ。文政権だけが韓国ではない。国民からの支持率下落は、日米との共生を望んでいる事に他ならないのでは、なかろうか。韓国を社会主義陣営に入れてはならない。
記事:金剛正臣
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