【ビジネス コラム】 とある経営者によるソーシャル メディアの投稿に間違った見解のコメントが寄せられた。それは「雇用主と従業員は対等である」との主張だ。これは労働条件等の雇用契約にかかる詳細に関し、雇用主と従業員が対等に取り決める事ができる点をもって主張しているのであろう。決して両者は対等ではない。
これをできるだけ分かりやすく説明する。
物事は順を追って考える癖が肝要だ。その事案ひとつだけに焦点を当てると間違う。エリートは法に強くなられたい。非エリートは法を学ばれたい。
まず大枠として、日本は法治国家である。憲法を軸とする六法を中心に各種法律が立法府(国会)・行政府(内閣府)制定されている。その法律が正しいか否かも含めて、各事案(事件)を判断するのが司法府(裁判所)だ。その判断したものを判例という。この判例と法律の二つを法という。
法律の根源的存在である六法のひとつ、商法には従業員のことを「商業使用人」と定めている。昨年に商法が百二十年ぶりに改正されたが、「商業使用人」を従業員に改めなかった。雇用主は「商人」で、従業員は「商業使用人」だ。主従関係がはっきりしている。民法の下位の会社法も同じ文言を使っている。
「労働者」という文言は、更に下位の労働基準法等で使っている。
何にせよ、法律の世界(立法・行政)では雇用主と従業員の主従関係が決まっている。
従業員に会社を代表する権利は無い
次に判例の世界(司法)。従業員に会社を代表して裁判をする権利はあるか。答えは無い。裁判を行うためには、訴える又は訴えられる主体になる必要がある。その権利を「当事者適格」という。従業員には当事者適格は無い。代表取締役や他の取締役等に会社を代表する当事者適格がある。その会社そのもの、ということだ。また代表執行役も当事者適格があるが、執行役員には無い。執行役員は裁判所では従業員扱いとなる。
理由は明白だ。
再び大枠に戻り、日本は資本主義だ。社会主義のような労働主義ではない。あくまでも政治が社会主義の政策を採り入れている資本主義といえよう。
法において会社の責任は誰が負うのだろうか。従業員ではないことは知っているだろう。例えば、株主代表訴訟で従業員が損害賠償金を株主に支払ったことは一度も無い。これからも分かる通り、責任を負える者が当事者適格という権利を有する。株主も時として責任を負う。従業員は責任を負わないので、そもそも権利が無い。
声が大きくなれば雇用主にメリット
もし、冒頭のように「雇用主と従業員は対等である」と主張を続けるならば、今までの取締役と同じように個人で損害賠償金を支払うのであろうか。昨今のニュースでも、とある有名自動車会社の元・取締役が刑事訴訟の次に民事訴訟で巨額な損害賠償を負わされる可能性があることは周知の通り。
両者が対等なれば、事業が失敗した際の損害を給与から会社側は補てんが可能だ。責任も対等である。従業員としては、仕事の失敗が減給理由となる。これは雇用主にメリットが大きい。
「雇用主と従業員は対等である」と声を挙げ、国会で法律ができれば、双方にメリットがあるのだろう。判例をつくる裁判所も世論を重視する。「雇用主と従業員は対等である」との論調が法的に当たり前になれば、強制解雇などを含めて従業員に責任を負わすことができる。権利と責任は一体である。
現状では裁判所は商業使用人を守るために厳格な解雇理由を設けてくれているが、要らないとみえる。これを新たな働き方改革にしたいのだろうか。
記事:羽田野正法
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