大メディア記者への苦言連発、「劣化というより退化」

【政治考察】 平成三十一年四月二十三日に国会にて自由報道協会(会長:苫米地英人)は第八回『自由報道協会賞』の授賞式を行い、授賞式終了後にシンポジウムを開催した。テーマは「日本の政治報道の自由度を向上させるためには」。日本の政治の現場は記者クラブが主体である。東京都等は覗くが、通常、記者クラブに加盟していない媒体やフリージャーナリストは記者会見に参加できない。

国の中枢の情報と質問権の寡占を未だに日本は行っている。事実上の癒着である。


シンポジウムには(写真左から)フリージャーナリスト・田中龍作、元フジテレビ報道局解説委員のジャーナリスト・安倍宏行、元博報堂の作家・本間龍、元TBS報道局記者の立憲・杉尾秀哉 参議、弁護士の社民・福島瑞穂 参議、「岐阜女子大」特別客員教授の立憲・藤田幸久 参議等がパネリストとして出席。


フリー・田中は森友・加計問題や統計偽装を例に記者そのものついて言及した。「マスコミの記者が現実を知らな過ぎる。記者の創造力が。」と、大メディアの記者達に真相を追求するジャーナリズムの欠如している点と日々の糧を得る為のただのライターに成り下がっている点を憂慮。


これに乗る様に元博報堂・本間は、五輪ボランティアが無償である点を挙げ、大メディアの記者達が真実を知っていても「書かない。書けない。」と零す。大メディアは五輪のスポンサである。「もう少し前の記者には保身があった。」と前置きして今の記者達には「保身であるとの意識も無い。」と断じる。「書くと面倒臭いから、いいや」の精神が蔓延っているという。日本の報道が劣化していると嘆く。


立憲・藤田は「記者クラブは官邸の下請け。」と揶揄。週刊誌は首相官邸に入れない。以前は東京アメリカン クラブや日本外国特派員協会も政権批判を含む自由な発信ができたが、今は日本人や日本法人が賛助している点より海外系のメディアも弱くなっている、とした。



<報道の自由のコストは誰が払うのか>

 元フジ・安倍はTVのニュースは断片的とし、「ストレート ニュースとは別に報道番組をつくらなきゃいけないんですよ。」と訴える。十五年程前から「報道の自由をTV自ら放棄してしまっている。」と伝え、記者が真実を取材してきた事を書けない実情も話した。ニュースの作り手が数字ばかりを気にしており、「記者側が(自身の会社や政治権力と)闘わない。」と、程度の低さに警鐘を鳴らす。


元TBS・杉尾は「一言で言うと事無かれ主義なんですよ。劣化というよりも退化。」と手厳しい。元々、日本の報道関係は村社会であり、村八分を意識的に避けているという。安倍政権も一次で誤った報道戦略を改善し、今の四次に至っている。そして「ジャーナリズムの基本は個人。個人が頑張らないといけない。」と鼓舞した。


大メディアの記者が弱体化した背景には、一重に各社の経済力の落ち込みにある。出版を含めた部数の下落、新聞記者が企業の広告記事を書く事実、正義よりも日々の生活を重んじる社会等と民度自体が劣化している。報道の自由にコストは存在するが、支援者は減っていく一方だ。



全ては主権者が招いた事

 またニュース アプリ等の巨大プラット フォーマにも言及。記事は広告収入を得る為の撒きえさであり、記事自体の思い入れがなく、時としてクーポンよりも記事が下になってしまっている点を指摘した。紙媒体の場合、新聞は広告が原則下だ。雑誌はページ毎の広告であるが、基本的に記事が主体の構成である。併せてYouTuberに関しては、「ジャーナリズムでも何でもない。エンタメですよね。」と元フジ・安倍は言い放った。


報道の自由は民主主義の根幹である。先の大戦でも報道の自由は大いに制限され、大日本本営の虚偽発表をもって国民は事実を知る術なく、息子達を戦場に笑顔で送る羽目に陥った。日本は中国の様な統制社会に向っている。理由は国民が報道の自由を軽んじるからだ。だが、実際には報道の自由が弱まれば、国民一人ひとりの生活に多大なる影響を及ぼす事になる。先の大戦の様に自由は無くなる。米国の記者達の様に国民自体が逞しくなければ、安定の生活を維持する事ができない。


経済の二極化も、非正規や貧困層の増加も、消費増税も、年金不安も全ては有権者が招いた事だ。政治家は主権者ではない。但し、報道記者は主権者だ。


撮影記事:金剛正臣

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