【芸能考察】 平成二十八年四月二十六日にシャンソン歌手で作家の戸川昌子(辛未)が胃がんで死去し、五月四日に通夜が営まれた。八十五歳だった。戒名は「浄賢院楽音文昌大姉(じょうけんいんがくおんもんしょうだいし)」。シャンソン歌手となったのは、三十路を手前にしてから。ソプラノより低くテノールより高いアルトで歌っていた戸川は、美輪明宏(乙亥)と出会い芸能活動が本格的に始まっていった。作家としては、江戸川乱歩賞を「大いなる幻影/講談社」受賞した事で有名になる。生涯で百作品程を書き上げた。
自著「猟人日記/出版文芸社」は映画化し、女優業もこなした。特に昭和五十年の映画「レスビアンの世界 恍惚/日活㈱」は、女の情欲が如実に顕された文学作で戸川が本作を監修した。渋谷ではシャンソニエ サロン「青い部屋」を三十年以上運営。三島由紀夫(乙丑)らが客として足を運んだ。シャンソン歌手の長男NERO(丁巳)は母を受け継ぎ、事業として「グランドキャバレー青い部屋」の主宰を務める。映画監督の佐々木誠がドキュメンタリ「青い部屋 35年の物語」で戸川と青い部屋を描いた。
<麗しきシャンソン>
そもそもシャンソンとは、フランス語で歌の意味で特定のジャンル(ロック等)を指し示すものではないが、現代においては一定のシャンソン的ジャンルが確立している。自由な発想力で歌い上げる、難易度がずば抜けて高い歌のことだ。よって、時代性もありウィキペディアでは、シャンソン歌手の数はわずか三十名程。国内でシャンソンに光が当たったのは、映画「紅の豚/東宝」の主題歌♪「さくらんぼの実る頃」。加藤登紀子(癸未)が歌い上げた。
シャンソンは、ピアノと歌い手とシンプルな構成だ。歌唱力・ライヴ力が問われる。現代でいうところのカヴァーが多い点も重要だ。日本における初めてのシャンソン歌手は、淡谷のり子(丁未)。時は昭和十年。日中戦争勃発の直前であった。戦後も主力ジャンルとして、キャバレー(現キャバクラの原型)やジャズバーを中心にシャンソンは栄華を誇るが、ザ・ピーナッツ等の和製ポップス歌謡やブルース、ビートルズ等の英米ロックにより衰退する。その栄華の中、戸川はシャンソンを愛した。音楽作品こそ少ないものの、七十代になりながらも作品をリリースする等、シャンソン界に大きな貢献をした。
真に大人の女が歌う曲、それがシャンソン。日本シャンソン歌手は、本場の仏シャンソン歌手とはまた違った女の強さがあり、当時の男たちを大いに支え、成長させた。今の日本には軽い女性の歌声が多く、オペラ・シャンソン・ブルースの様な力強い歌声はあまり聞くことができない。ひょっとすると、それが遠因となり日本男児が弱くなってしまっているのかも知れない。
画像:Pen Online Blog Makoto Sasakiより引用
記事:金剛正臣
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