【社会論説】 令和二年十一月十八日に中国新聞は、記事『男らしさが苦しくて 十九日「国際男性デー」「大黒柱」「仕事第一」…刷り込み重荷』を配信した。「男だから」という呪縛とプレッシャに悩む人達の声を届けた。同時配信したYahoo!ニュースでは、労務管理とライフプランを専門分野とする社会保険労務士のウェルスプラン・佐藤麻衣子 代取がコメントを残した。
それは「男女格差を示すジェンダーギャップ指数において日本は百五十三ヵ国中百二十一位という状況です。女性の社会的地位が低いとも言えますが、男性に求める社会的水準が諸外国より高いと言えるのかも知れません。」というもの。
一見すると女性の社会的地位だけが低い様に見えるが、麻衣子代取は男性への求め過ぎも相俟って、ギャップ指数が世界でも低い事を指摘。これは「男性が女性を配慮しない」のと同時に、「女性が男性を配慮しない」という事。男性側に責任があるのと同時に、女性側にも責任がある。故にギャップ指数が低い。
至極、納得いく指摘である。
<一度、ブレーキを。その価値観が日本人を助けているのか>
ただ、この基準は“グローバル化”に同じ、西洋の基準でもある。日本と西洋は文化が異なる。儒教圏と呼ばれる東アジアでは“男女の区別”がはっきりしている。その結果、日本は世界で最も歴史ある国となった。西洋では国自体がよく変わっている。成果で視れば、日本式が西洋式よりも優れている事にならないだろうか。
特に米国では、日本がまだ江戸時代であった頃、圧倒的に後進国で人口も僅かだった。よって、国の興隆の為に女性も活躍する必要があった。その頃の日本は、世界一の上下水道を敷設した程の世界ランク。江戸時代、女性は女性なりに活躍をしていた。
日本式男女の区別は、明治維新後では貧乏ながらも五大国に成り上がり、第二次大戦での敗戦後も「Japan as No.1」と呼ばれる程の経済復興どころか、世界ランクへ焼け野原から伸し上がった。日本式男女の区別は、何が拙いのだろうか。マゲ時代から世界に認められ、世界で最も富裕な国の一つとなった。何が拙いのか。
それは幸福を失ってでも守るものなのか
翻って、平成時代は男女平等の波が法の範疇を超えて増殖した。男女平等とは本来、「法の下の平等」の話しである。参政権や労働における採用基準等も含めて、法的に平等であるべきとの法理だ。だが、その範疇を超えた為に「男らしさ」「女らしら」という、何の法律にも書いてない文言が飛び交う始末。結果、平成不況を実体経済で脱してない(日本のGDPは直近三十年でまるで増えなかった)。
経済が伴ってないのに、これは国民の幸福に寄与しているだろうか。
もう一つマイナス成果がある。少子化だ。これは当たり前だ。全ての男女がユニセックスを共に求めたら、どうなるか。経済学的な考え方である。そうなると、男女は互いに何の魅力を感じるのだろうか。それは恐らく“人間性”となる。オスは人間性では発情しない。メスと認識するから発情する。全体適用する事は、生命の根源・子孫繁栄をまるで否定している。
詰まり、少子化とは発情しない、ないしできない社会なのだ。取材を通じ、幾度も中堅・シニアの自己満足的な綺麗事を目の当たりにしてきた。発情を抑止(出会いの場や出合う切っ掛けの過度な制限、禁煙増進等)しているのだから、少子化になるに決まっている。少子化により、現役世代及び子の世代の負担が増加し、可処分所得が減る。そもそも実質賃金が減っている。これは国民の幸福に寄与しているだろうか。
<それは西洋人による押し付け>
西洋では女性から男性へ性的アプローチをとれるが、日本の女性は現実的に向かないだろう。ならば、「女らしさ」があった方が経済的に弱い女性の為になる。経済的に強い女性は「女らしさ」の取捨選択の自由があるだろうが、経済的に弱い女性には取捨選択の自由が無い。まず安定収入。
平成時代よりエリートとされる女性は、同じエリートだけに通じる論を展開し、非エリートの女性を代弁してこなかった。現在、正規・非正規の女性を代弁するエリート女性はいるのだろうか。皆無ならば、怖ろし過ぎる。もし皆無と思うなら、完全に社会から排除されているではないか。現実がどれだけ辛く、孤独で、心を失っているか、同じエリート女性が弱い女性を代弁するべきなのに、真逆を行っていると断言できそうだ。
非エリートの女性には「男らしい」オスが必要なのだ。高尚な人権も大事だが、それは生活が安定し、未来が見えた時に考えるものだ。生活が安定する為には「男らしい」オスを利活用するもの。弱い女性は、弱い女性なりにオスを利活用してきた。それをエリート女性が奪ってしまった為、独身女性の相対的貧困が増えた。
自身が魅力的になれれば、経済力がある男性との結婚という未来さえも見える。ここも女性は利活用できる。
エリート女性は弱い女性の現実を考えよ
経済とは経世済民の略。「世を經(を)さめ、民を濟(すく)ふ」。この「男らしさ」「女らしさ」撤廃は弱い女性を救うだろうか。婚姻率や出生率、相対的貧困シングル マザー等の統計を視れば、間違っている。弱い女性を救ってないではないか。最早、エリートとされる女性の好き嫌いではないか。この自己満足こそが最も悪である。被害者は弱い女性。
「古いやり方はダメ」は論点が間違っている。古くとも良いものを採用し続け、新しくとも悪いものは採用しない。温故知新。そうやって日本は二千年以上やってきた。技術は西洋に学んだ方が良い部分もあるだろう。ただ、民を救うというやり方は日本が世界で最も優れている筈だ。国の歴史が証左である。米国は未だ二百年程度、小児レイプや人種差別をする警官を容認するあのやり方で、二千年は続かないだろう。
日本にもクズとされる男性は多くいる。何故、そんなにいるのか。それは誰かの妻となる際に必要な力だからだ。家を守る、子を守る。誰からか。所謂、クズな男性達からだ。いずれ母はクズな男性と闘わなければならない時が来る。だから、その辺のクズとされる男性で耐性を身に付け、未来の本当に大事な有事に備える。
男らしいオスに食事や身の回りの物を貰い、支出を抑える事ができる。
女らしくなれば、なった分だけ、貰える量・質が上がり、売買等で貯蓄が増える。
月収が低くとも、貯蓄額が益々上昇し、精神的に安定し始める。
その後、家を買うも善し、株等に投資して更に資産形成するも善し。結婚に向けてオスを取捨選択するも善し。
男らしいオスと結婚できれば、支出は更に抑えられ、テレワーク等で収入を確保しつつも、資産を増大させる事ができる。
女らしさを磨き続ければ、夫となったオスは嫉妬し、自己研鑽し始める。いつでも離婚できる程の収入・資産があれば、強気になれる。
これがオスの利活用。
女性の幸福の一つは資産額(貯蓄額を含む)。へそくりの時代から変わらない。
ロールモデルとして、女らしさの面では小池百合子が参考になる。先日、一期分の退職金として三千万円を得た。二階俊博の側にいる以上、一時は安泰だ(政策の実績に関しては、ここでは問わない)。
因みに顔は関係が無い。
オスには各々の好みが女性と同じ様にある。
詰まり、女らしくあれば、需要は必ず存在する。
全て西洋に合わせるのは、間違っている。“日本式男女の区別(役割分担)”こそが世界で最も安定的に、国民を助け、救ってきた方法だったのだ。国の存続という、最も国民を救う継続歴史が証明している。今更、サスティナビリティではない。日本は昔からサスティナビリティだ。日本のサスティナビリティに倣うは、西洋である。
「男らしさ」「女らしさ」は弱き女性の為に必要不可欠。
(了)
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