【人生考察】 平成九(一九九七)年から十六(二〇〇四)年に生まれた『脱ゆとり世代』。令和三年時点の年齢は、十七歳から二十四歳。およそ一千万人のボリュームがあり、これから社会には参入してくる。一世代上の「ゆとり世代」とは様相が異なる。
それは“前向きさ”だ。
ゆとりは省力的に生きてきたが、脱ゆとりは積極的に生きていく方向へ舵を切っている様に思われる。顕著なのが政治。一部の大学生が中心だが、政治へ若者から情報を発信すべく、各種の任意団体を設立。積極的に政治へ関与している(例;若者達が考える『都知事選』、白熱した四議題|東京未来会議)。
インスタは“映え”から“情報共有”のツールとして利用。脱ゆとりは“映え”を「(現実逃避的で)虚しい」「可哀そう」と判断している節がある。脱ゆとりは、ゆとりの人生をインスタ等で確認できる。これは、脱ゆとりからできる様になった事。社会人となった二十代を一つ上のゆとりの先輩達は、如何様に生きているのかを知れる。もう三十代に入っているゆとりもいる。
<アクティビティ重視>
脱ゆとりは、覇気の無い省力的な生き方を肯定してないのだろう。効率性や消極的よりも充実感を重んじてそうだ。今は卒業シーズンだが、コロナ禍によって一般的な卒業イベントは実施できない。そこでダンス等を習ってきた脱ゆとりは、公園や土手で思い出づくりの映像を撮影したり、最後の制服姿を華麗に収めている。ダンスはシンクロ・協調性が欠かせない。
音楽では脱ゆとり・十八歳のAdo(壬午)が「♪うっせいわ」で一気にブレイクした。中高年が視聴者のニッポン放送やラジオ日経でも楽曲が流れた。リリースは昨年十月。「不平不満垂れて、成れの果て」とは、「丸々と肉付いた その顔面にバツ」とは誰の事か(かぎ括弧内は当該歌詞より引用)。報道現在で一億回の再生回数へ向かっている。
一方では違法だが、暴走族も十代で復活。十五歳から取得できる「普通 自動二輪免許(旧:中免)」で単車を購入し、昭和の様な違法改造を施し、アプリで集合場所や暴走コースを設定。時には知らない人とも暴走行為を楽しむ。それは昭和の様な夜とは限らず、昼間から堂々と東京・明治通り等をコールしながら流す。
覇気の無い人生を嫌う
コロナ禍で「ニューノーマル」が発生し、脱ゆとりの若者達は逸早く適応した。環境適応は若者の特権である。脱ゆとりはアクティビティを重視する。それは効率性の反対である。日常を分割し、一つひとつを味わうかの如く愉しむ。一つ上のゆとり世代の二十代の生き方を観察した脱ゆとりは、消極的を忌避している様にも見える。
「覇気の無い人生、無難だけを追う人生は一体、何の意味があるのか」
「そもそも、楽しいのか」
こういった疑問があるのかも知れない。これはゆとりだけでなく、ゆとり以上の世代にも同じ事が言える。脱ゆとりが全面的に社会へ参入するのは後、数年。いつの時代も、若者が社会へ新しい価値観を持って来る。その時に、直の上司になり得るゆとり世代・プレッシャ世代・氷河期世代は今までの世代の様に若者を縛り付けるのか、それとも脱ゆとりを尊重し、共に闘っていくのか。
画像:【日本高校ダンス部選手権】幕張総合、2年生12人が全国の大舞台で躍動/産経新聞、FPhime
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