何故に尊敬できる大人が少ないか、それは『五常』を学ばなかったから

【人生・教育考察】 尊敬できる大人はいるか。いる者は幸福である。新自由主義が蔓延った現在の日本には、尊敬できる大人が少ない。それは戦後から『五常』を学ばなくなったからに他ならない。


五常とは何か。「」「」「」「」「」の事である。「論語」の孔子や孟子等の儒教であり、生れ落ちた人が目指すべき道でもある。日本では、今から十四世紀も前の飛鳥時代に若者の宰相・聖徳太子が「冠位十二階」にて採用した。聖徳太子は五常の上に「徳」を設け、計六つを大小二つに分け、国の役職を宛(アテ)がった。五常を実践した先に徳がある。


大日本帝国では、子どもに五常を学ばせる為に小学校(旧・尋常小学校)にて道徳科目「修身」を設け、軍国主義とは相反する世界平和主義を学ばせた。戦前の教育を“軍国主義”と広めたのはGHQ及び共産主義者(プロパガンダ)。修身も儒教。



<五常とは>

  1. 仁:愛、思いやり
  2. 義:正義、利の対極
  3. 礼:良好な人間関係を育むもの
  4. 智:学び、人を助ける力
  5. 信:嘘・偽りがない


徳とは五常を備え、世の為、人の為に活かしている事を指す。五常は徳を構成する徳目。この徳の道を「道徳」と云う。


では、五常が無い人間は如何様な人間か。

  1. 愛が無い、思いやりが無い
  2. 裏切る、利益ばかりを追求する
  3. 配慮はしない
  4. 新たな学びはない、人は助けない
  5. 嘘・偽りが当たり前


「今だけ、金だけ、自分だけ」は、正に五常の対極にある存在となる。この様な者を尊敬できる訳がない。中堅・シニアでも五常を学び、実践している者は僅か。世代で言えば「焼け跡世代」以上に学ぶ機会があった。その世代以下は自ら人としての道を欲し、探さなければ五常に辿り着けない。



世界平和の教育が五常

 大日本帝国の小学校では天下国家を学ぶ。自国や他国の事を知らなくば、大人物には成れない。この「人物」の意味合いも現在とは異なる。岩波国語辞典(第七版)に本来の意味合いがある。

人柄。優れた人柄。才能がある有用な人


道徳科目「修身」では官僚になろうが、商人になろうが一人の人物へ成長させるべく、子ども達へ人としての道を公的に教えていた。それは詰まり、教える大人達も五常を抱いている事になる。「義和団事件(日清戦争後)」等で外国人記者が、当時の日本人の善き行いを多数記してくれている事が証。その教育の目指すべきは大人物であり、立派な日本を創り、支え、世界の平和を希求する人づくりとなる。


道徳科目は安倍内閣が復活させたが、五常教育までの道のりは遠い。先ずは大人が五常を学び、実践する。若者・若手から五常を重んじられたい。そして、子ども達へ善き人の在り方を教える。尊敬できる大人を探すのではなく、自らが尊敬される様な者を目指す。多数が、その様な日本社会ならば、今とは異なるだろう。それを創れるのが若者・若手の時間的な特権である。


記事:秦正法

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