『経済的自殺』と「肉体的自殺」

【人生・社会考察】 神道・仏教、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥ教にて自殺は禁じられています。法律的には「殺人」になります。死人を現行刑法では裁きません。


現代の自殺は『肉体的』な自殺だけに留まりません。『経済的』な自殺も存在し、こちらの方が現在の社会的な問題の根本と言えるでしょう。


肉体的な自殺の理由には多数ありますが、やはり「経済苦」は日本でも多数を占めてる、と言えるでしょう。


この経済苦には二つの面があります。先のコロナ禍の失政等による「受動的な経済苦」と自暴自棄等で自らを貶(オトシ)める「能動的な経済苦」です。両面の線引きは難しく、白黒をはっきりする事は難しいでしょう。


前者は政治活動等で打開できます。問題は後者です。




<“能動的な経済苦”の恐ろしさ>

 とある社員や友人、家族が自暴自棄に陥り、仕事・勉強を投げ出したとします。短期的には看過できる範囲でも、中長期的には看過できない程に「機会損失」が膨らみ、「人生負債」が積み上がっていきます。


これは夏休みの宿題と一緒で、誰しもが必ず損失処理・負債処理をしなければなりません。


万一、両処理を放置すれば、人生そのものが破産します。つまり、自ら「機会損失」と「人生負債」を膨積させていく事が、能動的な経済苦による『経済的自殺』と定義できます。


上司や友人、家族は感覚的に部下や友人、家族の損失・負債の膨積を防ごうとします。ですが、現在では「パワハラ」「ストーカ(付きまとい行為)」「DV」が厳格化されてしまっていますので、能動的な経済苦による『経済的自殺』を本人の意思として尊重しなければなりません。事実上の静観です。


これは制度的に部下や友人、家族の“優しさ”“思い遣り”が制限されている事になります。



現実は“見捨てるべき”

 一度、その者が『経済的自殺』に向かうと、周囲はその者へブレーキする術を何も持ち合わせていないのが法的現実です。よって、『経済的自殺(能動的な経済苦)』は増加し続けるでしょう。結果、遅行指数としての『肉体的自殺』が増加する事が推測できます。


コロナ禍における自殺増を鑑みれば、子どもと若い女性達が自殺する前に『経済的自殺(受動的及び能動的な経済苦)』に陥っていた可能性が高いでしょう。


受動的な経済苦は先に示した通り、政治活動で打開が可能です。SNSで政治発言する事も政治活動に含みます。政治活動を避ければ、経済苦に陥ります。もう一方は相当深刻です。本人の意思の尊重が法的な壁となっています。自殺が『肉体的』なものだけと、昭和的なイメージに縛られているならば、本人は聞く耳を持たないでしょう。


この能動的な経済苦の『経済的自殺』を食い止める法制度ないし社会づくりを考えなければなりません。


「自ら苦しい方へ突き進む者は、見捨てるべき」が現行の法制度、日本社会となっています。


記事:京秦正法

画像:FPhime

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