日本人のルーツ、日本国祖『神武天皇』と西京(倭京)|神武東征=九州説

【日本考察】 若きハイムユーザの中でも『日本人のルーツ』シリーズは常時、相当に人気が高い。本稿では、正に日本人・日本国のルーツそのものである初代『神武天皇(神日本磐余彦天皇=カムヤマト イワレビコのスミラミコト、庚午)』に関する新説を共有したい。


以下がハイムにて共有してきたシリーズ。

  1. 日本人のルーツ、天皇が天皇になる前の古代『西日本大戦(縄文~弥生時代)』
  2. 日本人のルーツ、「縄文・弥生時代~現代」のDNA解析
  3. 日本人のルーツ、和を貴ぶ『神仏習合』の始まり
  4. 日本人のルーツ、縄文以前の『環フィリピン海経済(交流)圏』


歴史家・福永晋三(壬辰)は、日本書紀の「神武東征」先を奈良ではなく、福岡(筑豊)と推定している。福永は日本神道の大学とも云える「國學院大」にて漢文学を選考(一次資料「原文」を読める)。著書に「真実の仁徳天皇―倭歌が解き明かす古代史/不知火書房」等がある。三十年間、日本書紀等を研究し、「日本書紀を一番読んでいる。」と豪語している。


令和三年に福岡にて福永は、自身の「西日本新聞 筑豊版」連載記事を基に四回に亘って講演会を実施。その模様をYouTubeにて公開(報道現在)。福永は、通説の日本書紀の解釈の矛盾点を突く。




<今とは異なる海岸線>

 日本書紀の訓読みは「ヤマトのフミ」。先ず把握すべきは地形である。当時の地形の認識を誤っていると事跡を辿れない。上図は五十五世紀前の「縄文海進」の頃の関東平野と九州。海面が高いので、現在とは地形(海岸線)が異なる。


時は弥生時代。縄文海進よりは少し落ち着くも、現在よりも海面が高い九州から日本書紀「神武天皇記」が始まる。この点は変わらず。


福永は神武東征を福岡(筑豊)とする根拠の一つに、福岡が西の連合軍「西洲(ニシのクニ)」側と東の連合軍「豊葦原中洲(トヨアシハラのナカつクニ)」側に分かれていた事を挙げる。


両洲を『天照大御神』の孫に当たる西・筑紫「瓊瓊杵尊(ニニギのミコト=日神)」と東・豊「饒速日命(ニギハヤヒのミコト=天神)」が治めていたと推察。日神(天孫)がアマテラス系、天神(天満)がスサノオ系。

筑紫は筑前・筑後、豊は豊前・豊後(大分)。



ラグーン『古遠賀潟』争奪戦

 「豊葦原中洲」は神武東征後に島根・出雲が核となる。「黄泉の国(支那大陸か?)」と「高天原(茨城・千葉)」の間にあるとされたエリアで、スサノオ陣営。


その連合国=豊洲(トヨクニ)の政治・軍事担当の国、実質的な首都は「倭奴国(福岡・飯塚?)」。倭奴=委奴(イナ)≒稲か?上図の様に、その時代の福岡にはラグーン古遠賀潟』があった。縄文時代よりラグーンを征すると反映していた。


南中国や東南アジアから伝わったとされる水稲(スイトウ)の最大栽培エリア・古遠賀潟を奪い合うのが、神武東征の戦争目的だ(陸稲⇒水稲)。そもそも、茨城・千葉の「高天原」からアマテラス陣営が立った(常立の)理由は、縄文晩期の寒冷期により、食べ物が無くなり、死亡者が激増したからだ。その頃の気温は、現在の北海道「根室」よりも寒かったと推測されている。


その食べ物が豊富な「豊葦原中洲(豊洲)」の建国者をニギヤハヒと推定(西暦十四年か?)。尚、経済・外交担当の国は「伊都国(イツコク、福岡・糸島~西区?)」と見做される。



天神・スサノオ陣営

 スサノオは古事記に「建須佐之男命(タケハヤ スサノオのミコト)」とフルネームを記す。ニギハヤヒに同じ“速”系だ。スサノオ系に蛇神「大物主」と薬神「大国主(出雲大社・大神神社の祭神)」が居る。


福永は別天津神「宇摩志阿斯訶備 比古遅神(ウマシアシカビ ヒコヂのカミ)」を初代・大物主神と見做す。この場合、大物主より後にスサノオが居り、対するアマテラス陣営は「天之常立神(アメのトコタチのカミ)」となる。


また、ニギハヤヒは物部(モノノベ)氏の祖先神とされる。“部”とは、王に遣えるお家。物部氏は、大物主系に遣えるお家(分家?)と読める。


併せて、豊洲にはツクヨミ系?「豊前秦氏」もおり、次の古墳時代には「秦王国/隋書俀国伝」があったとされる。豊洲のエリアは白人系渡来人(ユダヤ?)が多かった可能性がある。併しながら、豊洲は海神・龍蛇族の国に変わりはない(受大神や玉姫等)。当時の福岡は、百越民族等(≒非・高天原系)との他民族との混血度が高かったのだろう。




<神武東征の開始>

 福永は九州の各神社社伝等(一次資料群)と実際の地形・地名等を日本書紀に突き合せ、新説を導いている。戦中、当時の文部省と現・神社本庁が各神社から一次資料群を預かった。戦後、これらを未だに返してない模様だ。福永は、たまたま各神社等に残っていた一次資料群を使用。


  • 十四歳~十五歳:熊本「日向(ヒムキ)」より福岡平野(佐賀の軍事拠点「吉野ヶ里」)を親子で攻めた。博多湾岸まで=北伐/景行天皇記・古事記「日向より発たして、筑紫に出でます」。立太子/神武記


  • 四十五歳:東征謀議(御前会議)/神武記、西暦百十四年

上図は北伐後の東西両洲の支配領域。豊洲が劣勢に立たされた段階から、東征が始まる。上図の「豊葦原瑞穂國」とは「豊葦原 千五百秋 瑞穂国(トヨハシハラのチイホアキのミズホのクニ)」。スサノオ陣営であるが、日本書紀には造化三神『高皇産霊神(タカミムスビのカミ)』と『天照大御神(大日孁貴命)』が言挙げ、とある。



  • 第一次東征:対スサノオ陣営「倭奴国(現・飯塚)/豊洲」、ニギヤヤヒの義弟・長髄彦(ナガスネビコ)の子孫に大敗。西暦百十四年(後漢時代)と。※金印「漢委奴国王印」は西暦五十七年
  • 四十九歳ないし五十歳第二次東征:アマテラス陣営「太宰府」から再軍備後(西九州+中九州+南九州の連合軍に)。西暦百十八年



=進攻経路=

  • 「高倉下(タカクラジ)」の大援軍;現・福岡「鞍手町(飯塚の北)」より
  • 再出発;宮崎・日向(美々津)
  • 速吸之問(ハヤスイのト);大分
  • 豊洲「宇佐」;大分
  • 同盟;大分にて烏(カラス)天狗と。天狗は、そのがたいと面容より西洋人と見られている。神武に協力したカラスは八咫烏(ヤタガラス)。詰まり、スサノオ陣営だったツクヨミ系?秦氏
  • 八咫烏の先導;福岡・英彦山→帝王山(摺鉢山)
  • 高倉山「國見丘(クニミがおか)」;福岡・飯塚「金国山」
  • 鳥尾峠(カラスオとうげ);軍略・策謀
  • 「天香山(アマのカグやま)」;奪取
  • 長髄彦の子孫へのリベンジ;飯塚にて
  • 「倭奴国」滅亡=西暦百十八年か?
  • 都づくり;『橿原宮
  • 正妃・神武皇后を迎える;スサノオ陣営・大物主の子孫「媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタラ イスズひめ)」=アマテラス陣営とスサノオ陣営の混血開始大和民族
  • 五十二歳ないし五十三歳神武即位;「始馭天下之天皇(ハツクニシラス スメラミコト)」。高天原『神武朝』開始(現・建国記念の日=紀元節)。西暦百二十一年
  • 国号=「秋津洲(アキつクニ)」;神武の第一皇子「手研耳命(タギシミミのミコト)」によるものか?



<奈良に非ず>

 以下が、主な相違点。

  1. 日本書紀;大和弁ではなく、九州弁で記す
  2. 天神『高皇産霊神』の神社数;奈良<福岡
  3. 豊葦原瑞穂國(後の豊葦原中洲);授けたのは筑紫「ニニギ(弟)」ではなく、豊「ニギハヤヒ(兄)」と。※ニニギは天孫降臨で有名、神武の曾祖父
  4. 神武軍の再軍備;「浪速国(大阪)で大敗後に、熊野(和歌山・三重)へ再上陸」は無理筋⇒再軍備不可(周辺に味方ナシ)
  5. 朝原の祭(天神地祇=天津神・国津神を祀る);奈良「丹生の川上」ではなく、福岡「菟田川(中元寺川、飯塚の東)」と
  6. 高倉下の段;奈良「石上(イソのカミ)神宮」ではなく、福岡「剣岳」と
  7. 國見丘;奈良「国見山(ホホ間の丘)」は大和平定後。福岡「岩石山」と
  8. ニニギの兄・ニギヤハヒが「長髄彦(ナガスネヒコ)」を誅して帰順;ニギヤハヒと神武には、百年以上のズレがあると
  9. 新都建設前;「征西(第二次東征、迂回して攻撃)/神武記」の文言が奈良ではおかしい。上図
  10. 紀伊の國;和歌山ではなく、筑後と
  11. 伊勢の國;三重ではなく、豊前・福岡「京築(ケイチク)」と。神武東征時にその國の神・伊勢津彦が現・伊勢へ逃避したと。!九州以外の神武東征ルート=(ニギハヤヒの長男+その他の“速”系物部氏)
  12. 橿原神宮(奠都);奈良ではなく、福岡・田川郡「鶴岡八幡神社?」と

日本の最初の都『西京』

 日本書紀は、七世紀・飛鳥時代後期に第四十代「天武天皇」が編纂を命令。八世紀に成立。この編纂時期に大和朝廷ないし藤原氏が、歴史改竄した可能性を福永は指摘。天武は『壬申の乱』にて第三十八代「天智天皇」の皇子を自殺に追い込み、即位していた。


この時に、日本書紀の前にあったとされる国史『日本記(ニホンギ)』が消失した可能性がある。


尚、福永は「平城京」まで九州に都があったと主張(西京)。上記、壬申の乱も九州と。近畿へ京が移るのは、八世紀・奈良時代後期「長岡京(第五十代・桓武天皇の遷都)」からと。次いで平安時代「平安京(同)」より京都


その後、十九世紀・明治時代に「東京(第百二十二代・明治天皇の奠都)」。現在に至る。


福永は「日本書紀 暦日原典/雄山閣」から当時の西暦を科学的に算出した。もし以上が真実ならば、日本史は「三京物語」である。


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