日本人のルーツ、縄文以前の『環フィリピン海経済(交流)圏』

【日本報道】 令和四年四月三十日に日本主義の作家・小名木善行(丙申)は、YT「むすび大学」にて『学校では教えない縄文以前の世界』をライブ配信した。縄文時代(紀元前百四十世紀~前十世紀)の前は「旧石器時代(前百四十世紀まで)」。


ハイムでは縄文~弥生時代に『環日本海経済圏』が在った事を報じた。小名木は動画にて更に時代を遡り、今から一万年前の氷河期に「フィリピン海」沿岸にて日本人を含む古代の人が集まっていた可能性を指摘した。環フィリピン海経済圏(交流圏)の存在。当時は日本海ではなく、日本湖


小名木は人類のルーツ「猿人」「原人」「旧人類」「新人類」から語り始めた。着眼点は人類(四万年~現代)。小名木は「ここで言う新人類というのは、白人種の事を言います。」と欧州に登場した白人種が新人類である点を強調。



<世界最古の加工した磨製石器>

 日本(有色人種)ではどうか。小名木は現・黄色人種を旧人類と見做し、「現代まで生息している。」と述べ、十二万年前前一千二百世紀)の日本から石器(砂原遺跡/島根)等が発見された学術的根拠より反論。「ミトコンドリアEVE」からの人類移動年数の計測(上図)に誤りがある点を指摘した。


また、旧石器時代・日本(岩宿遺跡/群馬)から出土した世界最古の「磨製石器」が三万年前前三百世紀)である点も強調。同時期以降の海外における磨製石器は、自然石をそのまま使用。日本の磨製石器は“加工”している点より、既に当時の日本には高度な文明が在った事を示している。


併せて日本とは異なり、海外の石器出土エリアからは、以後の文化・文明を証明するものが見つかってないという。その後の日本では、縄文時代に土偶(一万三千年前、前百三十世紀)や稲の生育(八千年前、前八十世紀)等の学術的根拠が在る。


小名木は重ねた。伊豆諸島「神津島」産の黒曜石で作られた石器が、静岡と長野で発見された。この石器は四万年前前四百世紀)と推定されている。



古代日本人の舟

 数万年前は氷河期。東アジアの「大陸棚(水深百三十㍍)」と呼ばれる場所は、陸地であった(東アジア平野等)。当時の海面は百四十㍍も低かった。現代と同じ海面の高さは十三万年前(前一千三百世紀)。併(シカ)し、伊豆諸島等は陸ではなく、南に向かって米グアムまで諸島状態の「伊豆ーグアム諸島」。舟が必要だった


如何様にして海を渡ったか。それは「丸木舟」ではなく、「葦舟(アシブネ、写真上)」と言う。葦は稲科。ススキも仲間。葦は水辺、ススキは乾いた陸で生息する。今でも荒川の脇には葦が立ち並んでいる。記紀では弥生時代以前の西日本を「葦原の中津国(国津神)」と呼称していたが、正に葦が多く、葦舟を使った流通が発達していたのだろう。


小名木は氷河期では、「温帯ー熱帯」ラインが現在よりも緯度が低く、フィリピン海周辺に人が集まっていたと推察する。氷河期のフィリピン海は、フィリピン・琉球諸島・日本(太平洋側の南海と東海)・伊豆グアム諸島に囲まれていた。詰まり、環状だった。太平洋からの赤道直下「暖流」がフィリピン海に還流してきたと言う。

同じ頃に西側では「環南シナ海交流圏」も在ったであろう。



令和のトリプル経済圏

 氷河期の東アジア及び東南アジアでは、海の生活が主体であったと考えられる。海人(海神、龍族)達の時代である。そして小名木は日本神話の記紀が、十万年前からの歴史書(口伝書)である点も伝えた。


氷河期が終わり、日本では「縄文海進」が起き、逆に関東平野や大阪平野は海に沈んでいた。「高天原(天津神)」の誕生である。その後は縄文後期に寒冷期に入り、『西日本大戦(倭国大乱)』へと移行する。


今回の旧石器時代の話では、太古の日本人は東アジア及び東南アジアとの交流を図っていた可能性があり、「八紘一宇(和)」の原型が示されたのではないだろうか。太古の先人達に学び、西洋思想に塗(マミ)れてアジア人同士がいがみ合う事は避けたい。


「環日本海」と「環南シナ海」、そして「環フィリピン海」の三大経済圏は、令和時代の日本を黄金時代(Goleden Age)へと導く。岸田総理(丁酉)は、四月二十日にマレーシア、二十三日にラオスとカンボジア、二十九日にインドネシア、五月一日にベトナム、二日にタイと首脳会談を立て続けに行った。

鍵は“大いなる和”。


記事:金剛正臣

画像:Google Map(修飾;FPhime)、壬生町/地域史料デジタルアーカイブ/ADEAC、学校では教えない縄文以前の世界|小名木善行/むすび大学、日本航海協会/Facebook、『海進・海退とは』/地球の大気、総理大臣官邸

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