憶測記事と推測記事、そのニュース記事に署名はあるか

【社会考察】 令和元年五月十三日に博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所(所長:吉川昌孝)は、生活者のメディア接触の現状を捉える『メディア定点調査』の本年度版を公表した。平成十八年より定点調査を行っている。メディア総接触時間は初の四百分台(一日あたり/週平均)に乗り上げ、過去最高となった。


十三年前の調査開始年には、総接触時間は三百三十五.二分だったが、本年は四百十一.六分を記録。実に二十二.八㌫も接触時間が増えた。内訳は調査し辛いが、スマホのニュース アプリの台頭により、ニュース自体への接触時間は同等か、それ以上に増えているものと推測される。


肌感覚ではニュース アプリの台頭により、現代人は以前と比べてニュースそのものに接触する時間が大いに増えており、時として時事ニュースにコメントをネット上に打ち込んでいる。


ニュース自体の大枠を掴む。ニュースには「一次」「二次」「三次」がある。一次の典型的な例は通信社のフラッシュ ニュース。行数が短く、事件や事故等の事実のみを素早く伝える。通常は報道各社が自身達で情報源を取材する。二次は通信社等から他の報道機関が情報を買い取り、自社の媒体で発信する。端的に言えば、取材してきた人から聞いた事を伝えている。三次は様々な事実を積み重ね、新たな事実や考察を導く。色々考えて纏めたものだ。だが、二次も三次も独自取材は存在する。


そして昨今、新たに三次にWebのニュース媒体が跋扈している。独自取材は非常に少なく、既報の情報を改めて発信していたりする。所謂「フェイク ニュース」は三次が多い。また、ここに個人によるソーシャル メディアの発信も含む。それがニュースとしての力を発揮している事は、ニュース アプリを参照すれば明快だろう。情報源がソーシャル メディアやブログのそれだ。



<必要な取材現場の空気感>

 あくまでも大枠での一次・二次・三次。報道界では法律の様に明確な線引きはされていない。何故ならば、肌感覚(五感)を重視しているからだ。


例えば、首相がとある国の元首と握手する写真が往々にしてあるが、現場を取材していると、空気感が伝わる。両国の近さや個人的な親密感等。これらをできるだけ記事や写真、映像で伝える事は相当に重要である。だが昨今の現場では空気感を伝えない、若しくは伝える事が不得手な媒体は多い。


この現場の空気感や三次ニュースの考察において、「憶測記事」という揶揄がなされる事がある。記者は例外なく憶測で記事を書いてはならない。裏を取るのが常だ。これは法律ではなく、媒体・記者としての矜持(プライド)であろう。憶測の意味は「確かな根拠もなくいいかげんに推測すること。/大辞林」とある。一方の推測は「ある事柄や情報に基づいて、おしはかって考えること。/同」と。憶測は根拠が無い。推測は事柄や情報が有る。


因みに考察は「物事を明らかにするために、十分に考えること。/同」で、考えの土台にあるのはニュース媒体の場合、事実である。



現場に足を運ばない記者の増加

 ブランケット判新聞・TV・ラジオはニュースを報じる際に、情報源の確からしさを精査する。その精度が高い為に、所謂、つまらないニュースになる。現代においてはバズる事が無いニュースだ。次にタブロイド版新聞やスポーツ新聞、週刊誌は時として先の三媒体を凌駕する。但し、こちらはニュース自体を誤報として当人から否定される事も儘ある。一方、憶測と揶揄されるニュースは三次に特化したWeb媒体に多い。

TVのワイドショーは二次的でもあり、三次的でもあるが、ここでは取り上げない。だが影響力はかなり大きい。


一言でいえば、記者は「足を運んだか」となる。当人にとって厳しい質問だと、明確に答えるどころか、取材拒否も往々にしてある。そうなると、先の空気感が重要になってくる。ビジネスの現場ではよくある事だが、絶対的に自信がある場合には代取が出てくる。そこまで力を入れてない場合には、取締役は出てこず、社員に説明をさせている。ビジネス記者としては非常に分かり易い。


そういった空気感を伝える為に、その空気感と今までの取材事実を重ねた結果、推測や類推の記事が出てくる。この推測記事は業界関係者にとっては最も重要だ。事実報道は事が起こった後なので、業界関係者は何もできないに等しい。例えば衆院選だと、首相が解散してから準備したのでは遅すぎる。事実報道後に動いていては、まず選挙に勝てない。だが現状の様に「解散風が、」等と永田町界隈が喧しくなれば、用意周到に準備もできる。

当然、現時点で首相は解散について言及していない。


本当に憶測の記事もあるかもしれない。現代においての見極めは記事の署名(クレジット)だ。よくニュースの写真に「撮影:○○」とあるだろう。同じ様に、その記事に記者の名前が記されているか、となる。欧米では当たり前であるが、日本の媒体記者は署名が少ない。記事への責任逃れと指摘されても仕方がない。署名が無い場合には、媒体自体の信頼性に依るしかないだろう。署名の記者は、その記事に責任を負っている。誤報や憶測は記者生命を左右する。特にWeb系のニュース媒体には署名の点で着眼されたい。


だが週刊誌等は例外だ。当人にとってはスキャンダラスな厳しい記事が力を有しているので、記者の名前が割れてしまったら、取材そのものに応じてくれなくなる。記事の執筆傾向が分かってしまうという事だ。


以上より、憶測記事は論外であるが推測記事には需要がある点、現状で信頼性の担保は署名か媒体名しかない点を押さえてニュースの取捨選択をされたい。


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