改憲は条文修正ではなく前文の改正から、和を尊ぶ令和憲法へ

【政治論説】 令和元年は終戦の日から七十四年、来年には七十五年となる。この間の日本は事実上、米国が作った憲法を以って国家を運営してきた。その綻びが日本の随所に顕れている。日本人としての古き善き民族性が壊滅的である。


各国憲法は、その国の民を象徴する。日本においては大和民族が如何様な民族であるかを世界に発信する為の宣誓書でもある。現行憲法の前文を読んでも分かる通り、数人の米国人が自国を真似て簡易的に作ったものでしかない。よって現在、様々な所で齟齬を来たしている。明治憲法の上諭(前文にあたる)と比較すれば、大和民族を表現しているのは、どちらかが直ぐに分かるだろう。


改憲は条文毎に変えるのではなく、国際法『内政不干渉の原則』を破って作られた現行憲法を無効とするのが最善となる。これは民間に同じで、違法・不法な行為における契約は、そもそも無効という事だ。だが、現下の国家の運営において全く新たに憲法を一から草案する事は難しい。この七十五年ちかく、現行憲法を基に各法律が成立してきたからだ。そこで自民党は各条文の修正等を提起している。徐々に変えていく算段だ。


しかし、まずは自国の憲法足らしめる現行憲法の前文を変えるべきであろう。中の部分部分ではなく、最初から一つひとつ国民が考えて変えていく事が大切なのではないだろうか。不磨の大典は明治憲法であって、現行憲法ではない。日本には七世紀はじめに聖徳太子が作ったとされる『十七条の憲法』がある。この憲法では第一条に「和(やわらぎ)を以て貴しとなす」と、日本人が和を重んじる事を重視している。


時代は下り、日本は中国の儒教から五常(仁・義・礼・智・信)を採り入れ、思いやる心を大事にし、私利私欲に捕らわれず、マナーを守り、勉学に励み、誠実さに重きを置いてきた。だから日本人は優れている、という評価を世界から頂いてきた。だが、これらが薄れてきている。ともすれば、軽んじられる。特に日本人を代表する国会議員や上級公務員の劣化は、五常を軽んじているからに他ならない。


十七条の憲法の「和(やわらぎ)を以て貴しとなす」と明治憲法の上諭、そして五常の要素を前文とすべきだろう。これを国民に問えば、「そうありたい」「あの頃のように戻りたい」が出てくる。現在は何かと殺伐し、金にまみれ、冷たい。日本には、ユダヤとアングロ・サクソンの米国の観念は合わなかった、という事だ。明治憲法が悪、という考えはGHQの民間情報教育局(CIE)が行った『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)』に洗脳されたに他ならない。この教育を受けた子ども達は今はシニアだ。洗脳が続いている。この影響は「ゆとり教育」まで至った。


第一、まげの時代から頑張って創った明治憲法を悪と断定する事は、明治憲法下で生きてきた明治・大正・昭和の先達である日本人に対して失礼だ。彼らは悪の憲法下で苦しんだ、とでも言いたいのだろうか。大東亜戦争は四年に満たない。その四年未満を以って事実上、アジア初の近代憲法『明治憲法』を総括するのは、大変におかしい。それならば、七年間の占領期の方が問題がある。


その占領期のおかしいを、合わないを日本人が生き易い様に変える時だ。二千年以上も掛けて日本は和を中心に生きてきた。今でも、それは残る。年若い人達をみれば分かるが、和を尊ぶ気持ちが小さくなっており、消えそうだ。だから憲法に和の精神を入れた方が良い。入れる場所は条文ではないだろう。


その和を以って、現在の冷たい司法・立法・行政の国家運営を眺めれば、変える部分はたくさんある。世界の誇れる和の司法・立法・行政を二十一世紀に創ってはどうだろうか。これは国際法に違反しない以上、問題はない。問題は国際法を違反して作られたモノである。「和(やわらぎ)を以て貴しとなす」への改憲ならば、国民は目を向けるだろう。それが令和憲法の名に相応しい。

(了)


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