仕事とは、芸術的なスポーツ

【ビジネス コラム】 仕事に対する価値観が富裕層と非・富裕層で異なる。


仕事はスポーツの一種。そして令和時代の仕事は、芸術(アート・創造)的なスポーツとなっている。例「iPhone」。



貧乏暇なし。


「江戸いろはかるた」の一つ。 他の事する余裕がなく、時間がつくれない商人の言い訳。お金が無いから暇がない、という意味に現代ではなってしまっているが、本質は異なる。飽くまでも、断り文句であり、お金が無い訳ではない。それどころか当時、商人はお金を持っている(お金持ちの)象徴。だから、お金持ちの言い訳、断り文句。


この貧乏というのは、お金が無いことを云うのではなく、心の問題。先の例の様に、江戸の商人は時間をつくらない言い訳を「貧乏暇なし」と言った。暇(ひま・いとま)を創る気が無いことを云う。いとまとは、余暇等のこと。つまり、余暇(バケーション)を創る気が無い程に、仕事(ジョブ・タスク処理)に専念している。ないし専念したい。


英語では仕事を表すものに、ジョブ・タスクよりも広いワーク・ビジネスがある。後二者は、前二者とは異なり、必ず金銭が発生するものとは限らない点に注目だ。例「社会活動」。


このように英語の仕事には階層がある。例「タスク<ジョブ<ワーク<ビジネス」。


学生スポーツで表現すると「地区予選<東京大会<関東大会<全国大会」だろうか。世界戦は当然、グローバル ビジネスと成る。


社会人になれば、先ずタスクを覚える。如何にタスクを早く効率的に処理をするか、ロボ・AIに負けない様に切磋琢磨する。配属されたオフィスでNo.1を狙う。(個人商店)


次に部下等のチームを率いて、小さなマネジメントを学び、同社グループ内や地方の競合他社と勝負する。課長ぐらいだろうか。個人の効率性だけでは勝てない。プレイング マネージャとして、適材適所を知る。(商店街)


勝てた後は、中程度のチーム(ディビジョン)を担当。会社の戦略を前提に武装化する。この武装化が肝。“火力の強さ”がものを云う。競合他社の戦略・戦術を知り、自社が勝る為の組織的な特訓を行う。その中程度のチームには、工場レベルの生産性・効率性が必要だ。オートメーションで、確実にジョブをこなす。タフさが欲しい。部長ぐらいだろうか。(デパート単体)


一先ず、最後は代取。鶏口牛後だろうが、何だろうが、全国トップ級の上場企業群と勝負。経営戦略そのものをプロのコンサルや会計士等と相談しながら、意思決定する。代取が、どれだけ人としての器を大きくできるか。失敗する企業、成長しない企業は代取が器を大きくする気が無い。排他的・敬遠的な思考は危険だ。受容的な思考が基準。(フランチャイズや全国チェーン)


どの段階でも「貧乏暇なし」は使える。危険。


この様に、ビジネスは競合他社とのスポーツである。選挙も同じで如何に多くの(マス向け)ユーザ、ないしハイレベルな(ラグジュアリ向け)ユーザから支持を得られるか。二兎は追えない。マスはラグジュアリには文化的に未来永劫、勝てない。後者の市場は、正に真のグローバル戦ができる。


後者の市場では前者の市場よりも芸術(アート・創造)性が求められる。令和時代以降は、ただ勝てば良いだけではない。アートに勝つことが求められ、企業または代取そのものが『ラグジュアリ ブランド』に成り得る。例「ココ・シャネル」。


動画なら画質は問題ではなく、コンテンツそのものの価値が問題。


GoogleやFacebook、Twitter等は、このラグジュアリ ブランドに成り得ないので、いずれ衰退し、消える。忘れ去られる。メルセデスは残るが、トヨタは危ない。テスラ(イーロン・マスク)は成り得そうだ。人生が基本的にお洒落である。


貧乏は心の問題。心が豊かか。スポーツは強いか。そしてお洒落か。

これが令和時代以降の仕事の本質だろう。


金銭という数値データは、然程、問題ではない。

それよりも、心が豊かか。スポーツ(ビジネス)は強いか。そしてお洒落か。

お金は付いてくるもの。




経営工学から芸術経営学と進化する。

例「ドラッカー(P. F. Drucker)における 経営と芸術の関係性


記事:羽田野正法

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